宗教では、一般に、棄教は罪とされているようだ。棄教とは神を棄てることだろうから、それも当然ではある。
でも、つらつらと考えてみると、棄教は罪であるとする思考の根っ子には、神は特定の宗教のみにしか関係していないという発想があるようだ。
「神は、この宗教のみに関係している。神とつながるには、この宗教しかない。この宗教を棄てることは、神を棄てることだ」
こういう発想だから、棄教はけしからぬこととされるのだろう。
ということは、別の見方をすれば、棄教は罪ではないと考えることもできるかもしれない。
「神は、あらゆる宗教、思想、思考の中に存在している。特定の宗教、思想、思考の中にだけ存在しているわけではない。したがって棄教も、改宗も、転向も、罪ではない。それらは神の右手につかまっていたのを、今度は左手につかまることにしたという程度のことでしかない」
こうしてみると、神を小さくとらえると人の罪は大きくなり、神を大きくとらえると人の罪は小さくなるものなのかなあという気がする。
別角度からいえばこうもいえるかもしれない。「他者を裁きたがる人の信じる神は狭量であり、他者を裁かない人の信じる神は寛容である」
ふむふむ。これって間違ってるかなあ。どうかわからんけど、神、罪、人について考えると、この他にもいろいろ考えることができそうである。〈了〉