先日、ある人から、「神様を感じるときって、どんなときだろう?」と聞かれた。これはあまり難しく考えなければ、いろいろとありそうである。
たとえば、一番分かりやすい例としては、神社がある。自分の場合は、神社で神様を拝むときは、そこに神様がいらっしゃるものだと思って拝んでる。
お寺も同じだ。仏像の前で手を合わせるときは、そこに神様……いや仏様かな……がおられると感じてる。仏像は仏像にすぎないかもしれないが、仏像に重なるように仏様もいると感じてる。
外を歩いている時に、ときどき見つける祠などでも神様は感じる。そこに神様が住んでいる、変なことはしてはいけないと思う。その前を通るたびに礼をするほど信心深くはないけれど、それでも不作法な真似はしないように注意はしてる。
山、川、海など、自然のなかでも、神様を感じることはある。よい釣り場を探して歩いているとき、妙に、しんとした場所を見つけることがある。そんなときは、「ここには何かいる。釣りをしてはいけない場所だ」と感じることはある。そういう感覚には強いて逆らうことはしない。
ああそうだ。神様を感じるのは、神社仏閣など特別の場所とは限らない。日常生活の中で、なんとなしに、神様に見守られてるという感じを持つことはある。
傍から見れば、自分はさして運がよいわけではないだろう。でもそれでも、「自分は運がいい。神様が見守ってくれてる」という安心感があったりするのだから、おかしなものである。
神様を感じるのは、大体こんなときかなと思う。他にもあるような気もするが、今、思い出せたのはこのくらいである。
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以上、神様を感じるときについていろいろ書いてみた。でもひょっとすると、見方によっては、そんなものはすべて錯覚だと言えないこともないかもしれない。
自分は小さい頃、昔話などで、神様の話や不思議な話などを沢山聞かされたのだった。また「誰が見ていなくとも、神様はちゃんと見てるんだよ」などと教えられてきたのだ。
そうであれば、そういう幼いころの記憶が長じてからも残っていて、神様に見守られていると感じたり、あちこちで神様を感じたりするのかもしれない。こう考えれば、神様を感じるのは錯覚にすぎないというのは、その通りだと認めざるを得なくなりそうだ。
ただ、神様は存在せず、神様が存在すると感じるのは錯覚にすぎないとしても、神様を感じるという感覚は、無視できないほどに強いのだからややこしい。
〝神様〟は存在しないかもしれない。〝神様を感じる〟のは錯覚かもしれない。でも〝神様を感じていること〟は事実なのだから仕方ない。
神様を感じる感性は、矯正すべきか。放置すべきか。はたまた開発すべきか。なかなかに悩ましいことではある。でも取り立てて問題が生じない限りは、現状維持にしとくのが、やっぱり無難なのかなあ、別にそれでいいんじゃないかな……と思わないでもない。どうも自分にはこのくらいのゆるさが合ってるようではある。〈了〉