*死んだらどうなる?
夏目漱石の「思ひ出す事など」は、修善寺で倒れたときのことを綴った文章だけども、そのなかで死について触れた箇所がある。
たとえば、一時、意識不明の重体となったときのことは次のように書いている。
余は余の個性を失った。余の意識を失った。たゞ失つた事丈が明白な許である。どうして幽霊となれやう。
(『漱石全集 第八巻 小品集』「思ひ出す事など」、岩波書店、昭和50年、p.320)

この文章を読むと、どうやら漱石は、いわゆる臨死体験はしなかったらしい。
自分は医師ではないのではっきりしたことは分からないのだけれど、こういう例をみると、吐血して血を失えば、脳の活動に支障がでて、意識を失うということになるのかなあと思う。意識というものは、脳に属するということかな。


*臨死体験って…
ところで臨死体験は、霊界の存在証明だという意見がある。
でも臨死体験を語る人は、重体にはなっても、脳死にまでは到らずに生還できた人たちばかりのようである。そうであれば、臨死体験がどんなにリアルであっても、不可思議であっても、脳から離れた出来事であると言い切るのは難しいように思う。
脳が無くとも人の個性が存続することを証明するならば、脳死と診断された人がよみがえって、臨死体験を語るくらいのことがなくては仕方がない。
夢もこれと同様である。霊夢といって、夢の中で霊界を旅してきたという人もいるが、そのときに脳が活動していたなら、霊夢なるものは、ただの脳内作用にすぎないという指摘を無効とするのは難しいし、霊界の存在証明としては弱いと思う。


*スピリチュアリズム
漱石は、スピリチュアリズムにも触れていたようである。同作のなかで、その種の本を読んだと書いている。ラングの「夢と幽霊」、フランマリオンの「霊妙なる心力」、ロッヂの「死後の生」などである。
けれども、その種の思想には、あまり感化されなかったようだ。漱石は、地球に意識があるとか何とか、そのような主張があることを紹介した後で、次のように書いている。

假定は人々の隨意であり、又時にとつて研究上必要の活力でもある。然したゞ假定だけでは、如何に臆病の結果幽靈を見やうとする、又迷信の極不可思議を夢みんとする余も、信力を以て彼等の説を奉ずることが出來ない。
(同上、p.319)

本来なら、地球に意識があるとか、霊は存在するとか、霊と話をしたとか、その種の話は一笑にふされても仕方がないことではある。けれども、漱石はそれについて懐疑的ではあっても、仮定としての存在は認めているようである。これは多分、知識人としてはかなり柔軟で、寛容な態度だろうなあと思う。
漱石は次のようにも書いている。

自分に經驗の出來ない限り、如何な綿密な學説でも吾を支配する能力は持ち得まい。
(同上、p.320)

これは、自分の目で見なければ信じない、自分が体験しないうちは信じないということであろうし、信仰者や心霊主義者がよく槍玉にあげる態度のようである。
でも、納得できないことは納得できないとする態度は、いかにも正直で、さっぱりしている。相手の顔色を窺いながら、適当なことを言ってお茶を濁すよりは、よほど心持ちがいいと私は思う。
どうやら漱石は、「思ひ出す事など」を読む限りは、死後の生は信じていなかったようである。その結論が正しいかどうかは、死んでみなけりゃ分からないことではあるけれども、漱石のように実体験を基に、落ちついてじっくり考える姿勢はいいなあと思う。この点は見習いたい。〈了〉