*まえおき
「人の日記や手紙は、勝手に見てはいけない」という考え方が、頭にこびりついていたせいか、「〇〇の日記」「××書簡集」という本は、それがたとえ有名作家のものであったとしても、何となしに読んではいけないような気がして、一部の例外は除いては、あまり手に取ることはしなかった。
でも近頃はどうもその辺りの抵抗感はなくなってきている。「作家だったら、自分の日記や手紙が読まれることは予期していただろう。有名作家なら、なおさらだ。だったら読んだってかまわないだろう」なんて考えるようになってきた。年を取って図々しくなってきたのかもしれない。
そういうわけで、もう何年も積読状態だった漱石の書簡集を読んでみた。全体をざっと見た印象では、初期の手紙は、漢字だらけの候文で読み難いが、後期になってくると言文一致で読みやすくなってる。内容もなるほどと思えるものが多い。おかげで楽しく読めた。こんなことなら、もっと早く読んどけばよかった。やっぱり読まず嫌いはよくないということらしい。


*恋してる?
書簡集を読んで、まず、「おっ!」と思ったのは、この一文である。

私はあなたの手紙を見て驚きました。天下に自分の事に多少の興味を有つてゐる人はあってもあなたの自白するような殆ど異性間の戀愛に近い熱度や感じを以て自分を注意してゐるものがあの時の高等學校にゐやうとは今日迄夢にも思ひませんでした。 〈省略〉 和辻哲郎といふ名前は帝國文學で覺えましたが覺へた時ですら其人は自分に好意を有つてゐてくれる人とは思ひませんでした。
(一七一五)

和辻哲郎はいったいどんな手紙を送ったのだろうか。かなり情熱的なものだったように思われる。
自分の過去を振り返ると、同性を好きになったことはあったろうか。まず思い出すのは、小一だったころの担任の先生だ。自分はこの先生が大好きだった。若くて、豪放磊落で、熊っぽい人だった。
同じころ、大らかでさっぱりした気性の叔父さんのことも好きだった。この人は、背が高くて、彫の深いイケメンだった。
青年時代には同じく大らかでさっぱりした中年男性と知り合って、好きになったし、尊敬もしたのだった。この人は、他人の短所を怒るより、理解するというタイプで、若者全般に人気があったようだ。
思い返してみれば、自分はわりと大人の男性をすきになりやすい方だったかもしれない。でもさすがに異性間の恋愛に近い感情はなく、どちらかといえば子犬が飼主に懐いて、じゃれてるという感じだったように思う。
こういう自分がいうのもなんだけど、若い人が年上の人を心から尊敬し、慕うということは、すごく尊いことだし、微笑ましいことであるし、よいことにちがいない。


*共感
これは分かるような気がする。

世の中にすきな人は段々なくなります。さうして天と地と草と木が美しく見えてきます。ことに此頃の春の光は甚だ好いのです。私は夫をたよりに生きてゐます。
(一八〇三)

自分は子供のころは、タンポポが咲いてると、首ちょんぱばかりしていた。タンポポの花を手に持ち、親指ではじきとばすのである。友達とそんな風な遊びをしていた。
二十代でも、花を見て美しいとは感じなかったし、においも臭いとしか思わなかった。
でも中年以降はどういうわけか、花はもちろん、草木の青さも美しく、かつ愛おしく感じるようになってきた。近親者が亡くなったり、やがて自分の番がくるだろうことを意識するようになるにつれて、さらにその感じは強まってきている。
だから、漱石の書いてることは本当だなあと思う。ただ自分は花粉症なので、花や草木への思いは完全な片想いにならざるをえないのが残念ではある。


*自己本位
こういう心境はうらやましいなあ。

私は蕪村の畫を買ひました(十二円で) 私は好い畫だと思つて毎日眺めてゐます人は偽物といふかも知れませんが私は一向頓着なしに楽しんでゐます
(一八二八)

以前、漱石の「私の個人主義」を読んで以来、自分を信じ、正直であろうと思うようになったのだけども、いまだそれは実現できていないのだから情けない。
「これはよい」と感じたものであっても、あまりよくない評判を聞いたりすると、途端に色あせて見えてきたりする。逆に、「どうもピンとこない」と感じたものであっても、多数がすばらしいと判断していると聞くと、自分はまちがっているのではないかと不安を感ずる。自分はよほど意気地がないらしい。
思い返してみれば、こんな自分も子供のころはよほど自信家だったのである。小四のころだったろうか。それまで図画工作は常にAだったのが、Bに下がったのだった。だから、担任のことを「あいつは絵を見る目がない」とこき下ろしたしたところ、いつのまにか後ろに担任が立っていて拳骨をいただいたことがあった。でもその後は、またAに戻ってたから、自分の意見については担任も理を認めたにちがいない(笑)。
これほど、あっけらかんとした自信家だった自分が、自分を信じ、正直になれなくなったのはなぜだろう。やっぱり宗教に凝ってしまったからかなあ。
自分を信じ、正直であることは、見方によって傲慢きわまりないことである。傲慢は宗教ではもっともタブーとされることである。だから宗教を信じるほどに、自分を信じ、正直であることは抑圧されざるをえない。
宗教を信じていながら、「神様はそう言うけれども、自分はそうは思わない。自分は神様の言うことより、自分の心が命じることに正直でいることにします」なんて抗弁できるわけもない。「神様の言うことと、自分の気持ちがちがうなら、自分が間違っているのだ。自分の気持ちを神様に合わせなくちゃいけない。そうしないのは傲慢だ」とせざるをえないのである。
自分が、自己に忠実、正直であることができなくなったのは、この種の宗教思想にどっぷりつかってしまったことが関係していそうである。


*正直
これは武者小路実篤宛ての手紙である。文面からすると武者小路実篤は、漱石の近くにいる誰かについて率直な感想を述べたらしい。

然るに又端書を頂戴して拜見すると何故私に其本を下さらないかの理由が判然と素直に書いてあります。ことにあなたの好かない人で私に比較的親密な人の名前迄書いてあります。私にはそれが最初の御手紙より遙かに心持ちがいゝのです。あなたが正直な事を云はないでは居られない性質を持ってゐるのが私には愉快だったからです。
(一九五九)

漱石は心から武者小路実篤の正直さを愉快に感じたらしい。
世の中には、悪口はいけない、好悪の感情を露わにしてはならない、礼儀正しくあらねばならないという考え方もあるけれど、どうやら漱石はその種の偽善的な礼儀を保つよりは、たとえ少々きつい悪口であったとしても、正直さの方を好んだようである。


*死後の世界
これは漱石が霊魂について、どう考えていたか分かる文章である。

私は死なないといふのではありません、誰でも死ぬといふのです、さうしてスピリチュアリストやマーテルリンクのいふように個性とかゞ死んだあと迄つづくとも何とも考へてゐないのです。
(一九八六)

これはごく自然な感想だと思う。
もし仮に、人は死んだ後は霊魂になるのだとしても、多分、生前の個性はそう長くは存続しないだろう。
たとえば自分はこの世に生まれてから数十年間生きてきた。でも幼児期の自分はもうどこにもいない。その頃の記憶もない。おそらくその頃の個性と今の個性とは別人というくらいに変わっているだろう。
とすれば、自分が死んだ後、霊魂になって生き続けたとしても、生前の個性はだんだんに消えてしまうにちがいない。死後、数十年、数百年、数千年と経てば、生前の個性は少しも残ってはいまい。
とすれば、唯物論的に見ても、心霊主義的に見ても、私という個性はやがて無くなるという結論は同じである。
心霊主義者のなかには、霊は永遠であるから、私という個性も永遠であると考える人もいるようである。でもこの二つは別問題である。霊は永遠だからといって、個性も永遠であるとするのは早計だと思う。


*嘘
これは京都の知人宛ての手紙である。漱石から送ってもらった本が届いていないと言ってきたらしい。

もしそれが届いてゐないとするなら天罰に違いない。御前は僕を北野の天神樣へ連れて行くと云って其日斷りなしに宇治へ遊びに行ってしまったぢゃないか。ああいふ無責任な事をすると決していいむくひは来ないものと思って御出で。本がこないと云つておこるより僕の方がおこつてゐると思ふのが順序ですよ。 〈省略〉 うそはつかないようになさい。天神樣の時のやうなうそを吐くと今度京都へ行つた時もうつきあわないよ 以上
(二〇二一)

漱石の手紙は大体が優しい雰囲気なのだけど、これはちょっと異質ではある。あきらかに不機嫌のようだ。
でも、天神様を案内するといってくれていた人が、当日は断わりもなしに約束をすっぽかして、どっかに行ってしまったとしたら腹を立てるのも無理はない。
けれども京都の知人はこれには異論を述べたらしい。それに対する漱石の返事はこうである。

あなたをうそつきと云つた事についてはどうも取り消す氣になりません。あなたがあやまつてくれたのは嬉しいが、そんな約束をした覺えがないといふに至つてはどうも空とぼけてごま化してゐるやうで心持が好くありません。 〈省略〉 私はいやがらせにこんな事を書くのではありません。愚癡でもありません。ただ一度付き合いだしたあなた――美しく好い所を持つてゐるあなたに對して冷淡になりたくないからこんな事をいつ迄も云ふのです。
(二〇二七)

自分が京都の知人であれば、石で漱ぎ、流れに枕すると言い張る頑固者と言い争っても仕方ないと判断して、早々に相手に話を合わせてしまいそうである。
また自分が漱石の立場であれば、この人は嘘つきだと思いつつも、言い争いは面倒なので黙ってるにちがいない。
我ながら自分は適当な奴だなあと思う。これじゃあ、仮に漱石と知り合えても、嫌われて口もきいてもらえなくなりそうである。


*器が大きい
これは誹謗中傷されて腹を立てていたらしい武者小路実篤に宛てた手紙である。

武者小路さん。氣に入らない事、癪に障る事、憤慨すべき事は塵芥の如く澤山あります。それをめる事は人間の力では出來ません。それと戰ふよりもそれをゆるす事が人間として立派なものならば、出來る丈そちらの方の修養をお互いにしたいと思ひますがどうでせう。
(二〇三四)

これを読むと、漱石はさすがに器が大きいなあと思う。
でもこの考え方と、京都の知人への対応は矛盾しているようでもある。京都の知人には愛想が尽きていなくて、話せばわかるはずという期待があったから、あれこれ書いたということかな。
想像するに、良心の感覚が鋭敏である漱石にとっては、気に入らない事、癪に障る事、憤慨すべき事を許すのは、普通の人がそうするよりも、もっと大変なことだったにちがいない。


*本当に大切ななこと
この文章を読むと、漱石は人間嫌いではなく、人が好きだったのかなあと思う。

芥川君のの中に、自分のやうなものから手紙を貰ふのは御迷惑かも知らないがといふ句がありまました。あれも不可せん。正當な感じをあんまり云ひ過ぎたものでせう。False modesty に陷りやすい言葉使ひと考へます。僕ならこう書きます。「なんぼ先生だって、僕から手紙を貰つて迷惑だとも思ふまいから叉書きます」――以上は氣が付いたから云ひます。
(二二一二)

芥川龍之介は気を使ってすごく丁寧な手紙を書いたのだろうか。でも謙虚も過ぎれば卑屈になったり、偽善的になってしまったりするものである。
漱石からしたら、芥川龍之介のような若者には、余所行きの態度ではなく、もっと肩の力を抜いて自然体でどんどん近付いてきて欲しかったのだろう。
この手紙を読むと、漱石のまわりに人がたくさん集まってきた理由がわかるような気がする。〈了〉