*おもしろい
佐藤優さん、竹内久美子さんの対談をまとめた本である。おおまかにいって、前半はドーキンス著『神は妄想である』について、後半は動物行動学についてが話題になっている。
「神は妄想である」なんていうと、熱心な信者の中には激怒する人もいるかもしれないが、佐藤優さんは、神学的見地から、ドーキンスの主張……神は妄想であるということを容認しているところがおもしろい。
佐藤優さん、竹内久美子さんの対談をまとめた本である。おおまかにいって、前半はドーキンス著『神は妄想である』について、後半は動物行動学についてが話題になっている。
「神は妄想である」なんていうと、熱心な信者の中には激怒する人もいるかもしれないが、佐藤優さんは、神学的見地から、ドーキンスの主張……神は妄想であるということを容認しているところがおもしろい。
*神は妄想である?
佐藤優さんによれば、ドーキンスの言う「神は妄想である」というのは、キリスト教神学ではすでに終わった議論であるらしい。
佐藤優さんによれば、ドーキンスの言う「神は妄想である」というのは、キリスト教神学ではすでに終わった議論であるらしい。
彼が「妄想」だとして簡単に片付けるような神は、近代以降の神学で考えられている神ではない――これはほぼ常識になっているんです。 (省略) ドーキンスの扱っている問題は、二百年前にキリスト教神学がすでに問題にしていますよ。そして百年前にほぼ解決がついている。(『佐藤優さん、神は本当に存在するのですか?』佐藤優 竹内久美子著、文藝春秋、2016年、pp.31-32)
ということは、ドーキンスの主張は、神学では百年前から常識として受け入れられており、神学的にも正しい見解だということなのだろうか。
とすると、ドーキンスの問題にしているような神を、いまも信じている信者は、神学上で妄想にすぎないとされている神を信じていることになる。これはなかなかに悲惨だ。
とすると、ドーキンスの問題にしているような神を、いまも信じている信者は、神学上で妄想にすぎないとされている神を信じていることになる。これはなかなかに悲惨だ。
*神は心の中にいる?
では、現在、神学では神とはどのような存在だとされているのだろうか。佐藤優さんによれば、近代化がすすむうちに、神は心の中にいるという考え方がでてきたそうである。
では、現在、神学では神とはどのような存在だとされているのだろうか。佐藤優さんによれば、近代化がすすむうちに、神は心の中にいるという考え方がでてきたそうである。
「神は妄想である」というのは、一九一四年までの啓蒙主義の世の中では、少なくとも知識人における常識でした。ところがそれ以降は、神を信じる人たちに二つの道が提示されるようになった。一つは近代的な世界観を一切認めない道。誰がなんと言おうと地球は平らであって、月や星が地球の上をぐるぐる回っており、神は上にいるんだと強弁する人たちの生き方ですね。これはカトリック、正教、そしてプロテスタントでもキリスト教根本主義(ファンダメンタリズム)につながる人たち。それに対してプロテスタント主流派の選んだ道は、神様は心の中にいるという考え方でした。心によって宇宙を直感したり、心理作用によって神を構想したりするようになった。それは合理主義や啓蒙主義を裏返したかたちのロマン主義にもなりました。(同上、pp.33-34)
神は心の中にいるというのは、スピリチュアリズムの方でよく聞く話ではあるが、プロテスタント主流派との相違点はどのあたりにあるのだろうか。
それにしても、神は心の中にあるというのは、「おばあさんは亡くなったけれど、私の心の中では今も生きています」という発想に似て、神学というわりには、ロマンチックというか、センチメンタルな感じがする。
また、神は心の中にいるというのであれば、神は私から独立した客観的存在であるというよりも、私の心とともにある主観的存在にすぎないことになり、それこそ、神は妄想であるということになってしまいそうである。
さらにいうと、神は心の中にあるなら、私が死んだとき……私の心が無くなったとき……神も私の心とともに滅んでしまうのではないだろうか。そうだとすると、神は永遠ではないことになるし、永遠でないならそれは神ではないことにもなりそうだ。
仮に、人の心は個人のものではなく、その内奥では他の心ともつながっているのであり、個人の心が滅んでも、その内奥は生き続けており、神も滅ぶことはないのだとしても、人類全体、生物全体が滅んだ時は、その内奥も滅ぶのであろうし、そうすれば神の居場所もなくなり、ともに滅ぶことになるだろう。とすれば心の中の神は、人類の心に依存して存在することになり、神とは言えなそうではある。
でもまてよ、人は死んでも、心は滅びない。心は意識であり、霊であり、永遠に生きるのだとすれば、心の中の神も永遠に生きることになるかもしれない。でもそれだと、人も神と同じく永遠であることになり、両者は同格になってしまう。神は超越者ではなくなってしまう。これでは人と神、どっちが主で従かがあやふやになり、神への信仰の必要性もそれだけ減じられてしまうのではないか。
ごちゃごちゃ屁理屈を書いてしまったが、おそらくはこんな疑問は、心の中の神を信じるプロテスタント主流派の中では、とうに解決されているのだろうなあ。自分が思いつくようなことは、とっくにどこかの誰かが考え、議論し尽くしているというのはよくあることなので。
それにしても、神は心の中にあるというのは、「おばあさんは亡くなったけれど、私の心の中では今も生きています」という発想に似て、神学というわりには、ロマンチックというか、センチメンタルな感じがする。
また、神は心の中にいるというのであれば、神は私から独立した客観的存在であるというよりも、私の心とともにある主観的存在にすぎないことになり、それこそ、神は妄想であるということになってしまいそうである。
さらにいうと、神は心の中にあるなら、私が死んだとき……私の心が無くなったとき……神も私の心とともに滅んでしまうのではないだろうか。そうだとすると、神は永遠ではないことになるし、永遠でないならそれは神ではないことにもなりそうだ。
仮に、人の心は個人のものではなく、その内奥では他の心ともつながっているのであり、個人の心が滅んでも、その内奥は生き続けており、神も滅ぶことはないのだとしても、人類全体、生物全体が滅んだ時は、その内奥も滅ぶのであろうし、そうすれば神の居場所もなくなり、ともに滅ぶことになるだろう。とすれば心の中の神は、人類の心に依存して存在することになり、神とは言えなそうではある。
でもまてよ、人は死んでも、心は滅びない。心は意識であり、霊であり、永遠に生きるのだとすれば、心の中の神も永遠に生きることになるかもしれない。でもそれだと、人も神と同じく永遠であることになり、両者は同格になってしまう。神は超越者ではなくなってしまう。これでは人と神、どっちが主で従かがあやふやになり、神への信仰の必要性もそれだけ減じられてしまうのではないか。
ごちゃごちゃ屁理屈を書いてしまったが、おそらくはこんな疑問は、心の中の神を信じるプロテスタント主流派の中では、とうに解決されているのだろうなあ。自分が思いつくようなことは、とっくにどこかの誰かが考え、議論し尽くしているというのはよくあることなので。
*人間の願望が投影された神
神のことが知りたくて、宗教の本を読んでいるうちに、宗教を学んで分かるのは、神のことではなくて、人間の願望、本性なのではないか、人間が何を望み、何を怖れてきたかということが分かるだけではないかと疑問に思ったことがある。
なので、下の指摘はすごく納得できる。
神のことが知りたくて、宗教の本を読んでいるうちに、宗教を学んで分かるのは、神のことではなくて、人間の願望、本性なのではないか、人間が何を望み、何を怖れてきたかということが分かるだけではないかと疑問に思ったことがある。
なので、下の指摘はすごく納得できる。
人間が自分の願望とか願い事でつくり上げてきた神様は、キリスト教が禁止しているところの偶像だということになった。プロテスタント神学の方ではね。(同上、p.34)人間が自分の力を超えるものに対して想定する神は、人間の願望や畏れの気持ちが投影された、いわば偶像ですよね。そういう神は、キリスト教神学でいう「神」ではないんですよ。にもかかわらず、いつの時代もそんな神が登場してくるために、そうした神という名の偶像をいかに排除するかが神学的な課題なんです。世の中の人が考える神と、神学的な訓練を受けた人が考える神は全然違う。だから、竹内さんやドーキンスのように「そういう神は妄想でしょ」と言われれば、「はい、その通りです」というしかないわけです。(同上、p.87)
宗教を見渡せば、〇〇祈願というようなものはたくさんある。これははっきりと人の願望を満足させるためのものだろう。
天国、地獄、因果応報などといった教えも、善いことをしたら褒美が欲しい、悪い奴は裁かれるべきだという願望を満足させるためのものだろう。
神を信じるのも、自分を守ってくれる存在がほしい、すべてを公平に判断してくれる存在がほしい、いざという時に頼りになる存在がほしいなどといった願望がまじっているだろう。
結局、信仰の根っ子には、願望がある。宗教の目的には願望充足がある。だからその願望が満たされない場合は、信仰は揺らぐことになる。
こう考えてみると、人間の願望や畏れが投影された神は、本当の神ではなく、偶像にすぎないとして排除するのは正しいことであると思う。これは本当の神を見出すためには、ぜひとも必要な手続きにちがいない。
でもそういった神を偶像として排除していったとしたら、後には何も残らないような気がしないでもない。願望や畏れが少しも投影されない神なんて、あり得るのだろうか。
天国、地獄、因果応報などといった教えも、善いことをしたら褒美が欲しい、悪い奴は裁かれるべきだという願望を満足させるためのものだろう。
神を信じるのも、自分を守ってくれる存在がほしい、すべてを公平に判断してくれる存在がほしい、いざという時に頼りになる存在がほしいなどといった願望がまじっているだろう。
結局、信仰の根っ子には、願望がある。宗教の目的には願望充足がある。だからその願望が満たされない場合は、信仰は揺らぐことになる。
こう考えてみると、人間の願望や畏れが投影された神は、本当の神ではなく、偶像にすぎないとして排除するのは正しいことであると思う。これは本当の神を見出すためには、ぜひとも必要な手続きにちがいない。
でもそういった神を偶像として排除していったとしたら、後には何も残らないような気がしないでもない。願望や畏れが少しも投影されない神なんて、あり得るのだろうか。
*人格神を奉じる宗教は、主流とはいえない?
佐藤優さんによれば、人格神を奉じる宗教は主流とはいえないということである。
佐藤優さんによれば、人格神を奉じる宗教は主流とはいえないということである。
人格神について一言いっておくと、今では、それを奉じる宗教はもはや主流とはいえないんです。そもそもはヤハウェ(エホバ)がユダヤ教の人格神ですけど、それが重要とされたのは、気まぐれだからこそなんです。(同上、p.41)
この発言にも共感できる。人格神の気まぐれで、誰かが依怙贔屓されたり、善良な人が災厄に見舞われるなんてことは受け入れ難い。そんなの馬鹿馬鹿しくてたまったもんじゃない。こういう神を奉じる宗教が主流でないのは当然のように思う。
とはいえ、クリスチャンは理不尽な災厄にあったときは、ヨブ記を読むという話を聞いたことはある。この世の不合理さ、理不尽さを受け入れなければならないとき、気まぐれな人格神を想定することは、自分を納得させる上では効果的な手段なのかもしれない。
また神に祈る時は、大抵の場合、人格神を想像しているのではなかろうか。現代では、つえを持ち、髭を生やしたおじいさんが雲の上に立っていると信じることは難しい。でも祈る時には、どうしたって人の形をした神をイメージしてしまうのではないか。
こう考えると、人格神を奉じないというのは口で言うのはやさしくとも、実行するのはけっこう難しそうではある。
人格神の気まぐれに付き合わされるのはまっぴらではあるが、祈る時には、神は人間的感情を持っていることを期待するのだから、ずいぶんと身勝手な話ではあるかもしれない。
とはいえ、クリスチャンは理不尽な災厄にあったときは、ヨブ記を読むという話を聞いたことはある。この世の不合理さ、理不尽さを受け入れなければならないとき、気まぐれな人格神を想定することは、自分を納得させる上では効果的な手段なのかもしれない。
また神に祈る時は、大抵の場合、人格神を想像しているのではなかろうか。現代では、つえを持ち、髭を生やしたおじいさんが雲の上に立っていると信じることは難しい。でも祈る時には、どうしたって人の形をした神をイメージしてしまうのではないか。
こう考えると、人格神を奉じないというのは口で言うのはやさしくとも、実行するのはけっこう難しそうではある。
人格神の気まぐれに付き合わされるのはまっぴらではあるが、祈る時には、神は人間的感情を持っていることを期待するのだから、ずいぶんと身勝手な話ではあるかもしれない。
*分をわきまえる?
やっぱり、神について考えるのは難しい。「神とは?」と考えても、納得できる答えはでてこない。
ただそれでも、「これは神ではないな。妄想だな」ということは判断できそうではある。そうであれば、これだけで十分だとするしかないのかなあと思う。〈了〉
やっぱり、神について考えるのは難しい。「神とは?」と考えても、納得できる答えはでてこない。
ただそれでも、「これは神ではないな。妄想だな」ということは判断できそうではある。そうであれば、これだけで十分だとするしかないのかなあと思う。〈了〉