*再読してみたい
表紙の説明文によれば、「最古の仏典に収められたブッダのことばのみに依拠」した「英語圏最良の仏教概説書」であるというので読んでみた。
通読してみたところでは、自分には難しすぎるところもあるが、それでも共感できたところ、確認できたところも多々あり、良書であるように感じられた。しばらくしてから、また再読してみたいと思わせる本である。
表紙の説明文によれば、「最古の仏典に収められたブッダのことばのみに依拠」した「英語圏最良の仏教概説書」であるというので読んでみた。
通読してみたところでは、自分には難しすぎるところもあるが、それでも共感できたところ、確認できたところも多々あり、良書であるように感じられた。しばらくしてから、また再読してみたいと思わせる本である。
*信と疑
本書を読んでいて、最初にはっとさせられたのは、次の箇所だった。
本書を読んでいて、最初にはっとさせられたのは、次の箇所だった。
ブッダの教えによれば、疑いは真理を明確に理解し、精神的に進歩するための「五つの妨げ」の一つである。しかしながら疑いは「罪」ではない。(『ブッダが説いたこと』(岩波文庫)ワールポラ・ラーフラ著、今枝由郎訳、岩波書店、2016年、pp.29-30)
自分は何となしに、疑うのはよくないことだという意識がある。ものごとを疑うときには罪悪感を持ったりする。
だから、疑いは罪ではないと聞かされると、ほっとする。
でも考えてみれば、福音書でも、イエスは復活を疑う弟子に対して、それほど怒ってはいなかったようにも思える。そういう弟子には、十字架に付けられたときの傷にふれさせてあげたりしていた。
また、旧約の神は、疑い深い者に、証を見せてやったりもしている。
だから、疑いは罪ではないと聞かされると、ほっとする。
でも考えてみれば、福音書でも、イエスは復活を疑う弟子に対して、それほど怒ってはいなかったようにも思える。そういう弟子には、十字架に付けられたときの傷にふれさせてあげたりしていた。
また、旧約の神は、疑い深い者に、証を見せてやったりもしている。
・神を試してもいいのか?
http://blogs.yahoo.co.jp/jiyuu2013/38693380.html
http://blogs.yahoo.co.jp/jiyuu2013/38693380.html
こうしてみると、仏教に限らず、他の宗教でも、「疑いは罪ではない」とまでは言わないにしても、「疑いは常に罪になるとは限らない」というくらいは言ってくれそうな気がしないでもない。
疑わずに、信じるべきであるというのは、的を射ていない。ただ単に「私は信じる」というのは、本当にものごとを理解し、ものごとが見えているということではない。(同上、p.30)ただ単に「私は信じる」あるいは「私は疑わない」というのは、問題を本当に解決することにはならない。理解することなく、自らに無理強いして何かを信じたり、受け入れたりすることは、政治的にはよくても、精神的に、あるいは知的にはよくない。(同上、pp.30-31)
これは本当にその通りだ。
そういえば、なにかで「真理とは信じるものではなくて、理解するものである」という話を読んだ憶えがある。なんとなく、ずっと頭に残っていた言葉だけれども、仏教的にもこれは正しいことのようだ。
あえて極論をいえば、ただひたすらに信じるというのは、本当は理解していないのに、理解しているふりをすることであり、誤魔化し、嘘をつくことであるかもしれない。
「信じろ、信じろ」と無理強いする人、「信じる、信じる」と闇雲に信じる人たちをみていて、違和感をおぼえるのは、そこに誤魔化しや嘘があるためなのかなあ。
そういえば、なにかで「真理とは信じるものではなくて、理解するものである」という話を読んだ憶えがある。なんとなく、ずっと頭に残っていた言葉だけれども、仏教的にもこれは正しいことのようだ。
あえて極論をいえば、ただひたすらに信じるというのは、本当は理解していないのに、理解しているふりをすることであり、誤魔化し、嘘をつくことであるかもしれない。
「信じろ、信じろ」と無理強いする人、「信じる、信じる」と闇雲に信じる人たちをみていて、違和感をおぼえるのは、そこに誤魔化しや嘘があるためなのかなあ。
*無我
本書によれば、意識はそれだけでは存在しえないとのことである。これがブッダの考え方なのだという。
本書によれば、意識はそれだけでは存在しえないとのことである。これがブッダの考え方なのだという。
ブッダは、意識は物質、感覚、識別、意思に依存しているのであって、それらから独立しては存在しえない、と明白に述べている。(同上、p.72)
たしかに、外界からの刺激が何もなければ、意識があると認識できそうもない。脳が活動を停止したら、または脳から独立しては、意識は失われそうではある。
臨死体験なんていうものもあるらしいけれども、これを体験した人たちはみな脳死判定はされることなかったようである。とすれば、臨死体験は、脳から独立して意識が存する証とはならないだろう。
臨死体験なんていうものもあるらしいけれども、これを体験した人たちはみな脳死判定はされることなかったようである。とすれば、臨死体験は、脳から独立して意識が存する証とはならないだろう。
要するに、存在するのは五つの集合要素である。私たちが存在、個人あるいは「私」と呼んでいるのは、この五つの集合要素の結合に対する便宜上の名称に過ぎない。(同上、p.72)
何らかの事由によって、五つの集合要素の結合が生じたところに私が生じて、何らかの事由によって、それらの結合がほどけたら、私は失われるということだろうか。
因果律に従って、一つのものが消滅し、それが次のものの生起を条件付ける。その過程で、変わらないものは何一つとしてない。そのなかで、持続的「自己」、「個人」、あるいは「私」と呼べるようなものは存在しない。(同上、pp.73-74)
これは実感としてよく分かる。自分の過去を振り返ってみれば、子供時代の私は既に失われてしまった。おそらくは、数年、数十年後には、今現在の私も失われるのだろう。細かく見れば、私は多分、一瞬一瞬で変わっている。私は持続的な存在ではない。
「条件付けられた生起」の理論、および存在の五集合要素の分析から、人間の内あるいは外に、アートマン、「我」、魂、自己、あるいはエゴといった不変、不死なるものを想定するのは、誤っており、単なる心的投射に過ぎない。これが、仏教のアナッタ、無魂、無我の教理である。(同上、p.128)私たちが「私」「存在」と呼んでいるものは、各々が独立に、因果律に従い刻一刻と変化する物質的、心的要素の集合に過ぎない。そうした存在には、恒久で、永続し、不易で、永遠なものは何もない。(同上、p.147)
「単なる心的投射に過ぎない」というのは、よく分かる。
自分自身を振り返ってみれば、死んだら無になるのは嫌だ、死んだらおしまいだなんて嫌だと思っていたころは、「人には肉体とは別に、霊体がある。この霊体こそが、人の本質であり、永遠の存在である」と信じていた。まさに心的投射だった。
でもそうすると、アートマン、霊魂など、永遠なる自己などはないというのも、心的投射である可能性もありそうである。アートマン、霊魂の永遠を信じたくないから、そんなものはないとしているのではないかと。
いや、やっぱりそうではない。ものごとは要素の集合でなりたっていること、要素は何らかの縁によって集合し、または離散すること、要素の集合以外に独立して何かが存在し続けていることは確認できないことなどは、客観的な事実のようだ。とすれば、無魂、無我というのは投射や願望というより、事実に基づく考えといえる。まさに、ものごとはすべて、うたかたの如しである。
自分自身を振り返ってみれば、死んだら無になるのは嫌だ、死んだらおしまいだなんて嫌だと思っていたころは、「人には肉体とは別に、霊体がある。この霊体こそが、人の本質であり、永遠の存在である」と信じていた。まさに心的投射だった。
でもそうすると、アートマン、霊魂など、永遠なる自己などはないというのも、心的投射である可能性もありそうである。アートマン、霊魂の永遠を信じたくないから、そんなものはないとしているのではないかと。
いや、やっぱりそうではない。ものごとは要素の集合でなりたっていること、要素は何らかの縁によって集合し、または離散すること、要素の集合以外に独立して何かが存在し続けていることは確認できないことなどは、客観的な事実のようだ。とすれば、無魂、無我というのは投射や願望というより、事実に基づく考えといえる。まさに、ものごとはすべて、うたかたの如しである。
*慧眼と勇気
無我については、エゴはよくない、無私であるべきだという風に、心掛けを語ったものだと解釈すれば、万人に理解、共感されそうである。でも無我は、存在について語ったものであり、ものごとはすべて移ろいゆき、その背後に永遠不変の本質などというものはないという見方だとすれば、これは万人に理解、共感されるのは難しそうではある。理解、共感されないどころか、敵意を向けられ、反発されることさえあるかもしれない。釈尊は当初、自分の覚りを他人に語ることに積極的ではなかったというけれども、その理由は分かる気がする。
でも最終的には、釈尊は無我を説いた。アートマンの存在が広く信じられている時代、社会の中において、無我を発見したことはもちろん、それを説くことのできた釈尊の慧眼と勇気はすさまじいものがあるなあと心から思う。〈了〉