*感想
本書では、仏教史について多く語られており、仏教の思想、信仰についての記述は控え目であるように思う。でもそれについて書かれているところは、分かりやすく書かれているのでうれしい。もっとも私にとってはそれでもまだまだ難しいのだけれど。
文体はやや平坦のように感じるが、淡々とした語り口は落ち着いていて心地よいとも言える。こういう文体もよいと思う。
以下には、本書中、興味を引かれた部分についてメモしておく。


*仏陀の誕生
本書の後半には、仏陀が神格化される過程について記述されている。

誰も真似することのできない偉大な業績をなしとげ、人々に真理を説き、解脱への道を教えたのは普通の人間であるはずがない。現に多くの人々は仏陀の奇瑞さえ見ているではないか。こういうところから、人間としてのシャークムニ以上に、経験界を超越した絶対的な存在としての仏陀が実在するにちがいないという考えが起こった。
(『仏教』(岩波新書) 渡辺照宏著、岩波書店、昭和31年、pp.157-158)

奇瑞(きずい)とは、めでたいことの前兆として起きる不思議なことの意であるらしい。
上はまだ初期段階のようだけども、大乗となると、仏陀像はさらに大がかりなものになっていく。

大乗の理念によれば、仏陀は無限の慈悲をそなえ、すべての衆生を救済しようとするものであるから、どんな場所にも、どんな時にも必ず遍在しなけばならない。 〈省略〉 したがって仏陀は宇宙に充満するとともに、さまざまな姿であらわれる。
(同上、p.159)

思い返してみれば、遠藤周作の『イエスの生涯』『キリストの誕生』にも、同じようなことが述べられていた。イエスの弟子たちは、イエスの死と直面したときに、これですべて終わったのか、いやそんなはずはない、これには何らかの意味があったはずだと悩み続け、そこから復活だとかそういった信仰が生まれてきたのではないかという話だったと思う。
信仰対象としての仏陀も、これと同じような流れで形作られたのかもしれない。もしそうだとすれば、「神が人をつくったのではない。人が神をつくったのだ」というのも、まんざら嘘ではなさそうだ。


*菩薩の誕生
本書には、仏陀だけでなく、菩薩についても記されている。
まず、菩薩とは、もともとは仏陀になるまえの釈迦のことだったという。

元来はシャークムニが仏陀となるまでの状態をさすものであった。
(同上、p.162)

これが紆余曲折を経て、大乗仏教では次のような意味になったという。

仏陀を理想とし、衆生の救済を念願するものは誰でもボサツである。
(同上、p.164)

これも、元から菩薩という存在があったということではなく、人々の願望に応じて、菩薩という存在が形作られてきたということであるらしい。
ここでも、「神が人をつくったのではない。人が神をつくったのだ」ということが言えそうである。
とはいえ、「人より先んじて、仏陀、菩薩は存在したのだ」ということも主張できなくもないかもしれない。
「人より先んじて、仏陀、菩薩は存在したのだ。人は表面意識ではそのことは知らない。けれども心の奥底ではそのことを知っているのだ。ただそれでも、普段は無意識の底にしずんでいる仏陀、菩薩のイメージが何かの拍子に、心の表面に浮かび上がってくることがある。また何十年、何百年に一人くらいは、無意識の底にある仏陀、菩薩を垣間見ることのできる才能を持った者が現れ、それについて語ることもある。これによって、時代を下るにつれて、少しずつ仏陀、菩薩の姿が明らかにされてきたのだ。仏陀、菩薩は人がこしらえたのではない。心の底に埋められていた仏陀、菩薩を、人が掘り起こしたのだ」云々
こういう考え方は、信仰としてはありえるかもしれない。でも事実だと証明することはできないだろうし、そうであればいつまでも信仰に留まるしかなさそうではある。


*無我と苦
無我については、次のように説明されている。

人間そのものも、人間が住んでいる世界もすべて、五蘊の結合と離散とによってなりたつ。その離合は常に変化するから、われわれもわれわれの住む世界もともに無常である。この変化する現象を阻止できるものは何もない。すべては変化の流れにしたがうのみである。したがって現象を超越し、これを支配する主人公というものは存しない。故に無我であるという。またわれわれの思いのままに現象の流れを変えることができないから苦である。
(同上、pp.167-168)

一切は移ろいゆくものであり、そこから超越した、永遠不変のアートマンだとか、霊魂などといったものは存在しないということらしい。おそらく、これが常識的な解釈なのだろう。
気になるのは、最後の「われわれの思いのままに現象の流れを変えることができない」という部分である。
スピリチュアル系では、思ったことは現実になるだとか、思いによって現実をコントロールすることは可能だとされているように思う。
でもこの一文は、それとは対極に位置するようだ。どっちが本当なのだろうか。
現実生活のなかでは、「思ってたことが現実になった」「言ったことが本当になった」ということは、たまにあるように思う。ただ、思ったゆえにそれが現実になったのか、言ったゆえにそれが現実になったのか、この辺りの因果関係は判然としないところもある。それらに因果関係を認めるのは、ただの気のせいにすぎないといわれれば、それまでだ。
とすれば、思いのままにならないから苦であるという仏教は正しく、思いは実現するというスピリチュアルな考え方はまちがいだということになりそうだ。
ただそうはいっても、自分は迷信深いせいか、思ったこと、言ったことが現実になるという考え方から自由になり切れないのだから、なかなかに面倒である。いまだに、「縁起の悪いことは言うもんじゃない。口に出したら、本当にそうなるかもしれないじゃないか」と思ってしまうくちなので。


*言うは易し、行うは難し
ところで、上の文章については、他の箇所では、もっとやさしい語り口でも説明してある。

われわれの常識的な見解では主観をも客観をも固定的なものと考えがちである。しかしよくよく反省してみると固定的なものは何ひとつ存在しないのである。 〈省略〉 何ひとつじっとしているものはない。たえず新しい変化がおこっているのである。この変化するものを変化すると認め、実体のないところに実体がないことを認めることによって、苦悩から脱出する手がかりが得られる。戒律と禅定とにもとづいて正しい人間生活を実践することによって、悩みのない境地、とこしえの安らげさに達することができるであろう。それがネハンである。
(同上、p.168)

「変化するものを変化すると認め」るというのは、言うは易し、行うは難しだなあと思う。
たとえば、一切は過ぎて行くものだからといって、大切な人の死を諦めることはそう簡単ではないだろう。
「人はいずれ死すべきものだ。これまでも、これからも、死なない人などはいないだろう。自分の大切な人であっても、例外ではない。死すべき存在は死する以外にないのだ。それをいつまでも嘆き悲しんでいても仕方がない。そうしたからといって、死んだ者が生き返るわけでもない」云々というような説教があるのは承知している。でも近親者を亡くした悲しみは、そんな説教を聞いたからといって、そう簡単に癒されるものではないだろう。
これに関しては、死、別れ以外にも、老、病、物、国、心、その他のものに関しても同じことが言えると思う。それは執着だから止めなさいと言われたからといって、そう簡単にその通りにできるわけもない。
一切は過ぎ去って行くというのは、分かりきったことではあるけれども、それを受け入れ、かつ、心の平安を保って生きていくというのは、なかなかに難易度は高い。


*釈尊は、輪廻を信じていたか?
本書では、釈尊と輪廻についても記してある。

釈尊は単に自分の知識を発表する学究者ではなくて、特定の相手を教化する精神的指導者であった。 〈省略〉 仏陀にとっては輪廻はもはや実在しない。しかし、輪廻を厳然たる事実として認めそれに束縛されている人々に対して仏陀は法を説いているのである。時間的な意味において実在すると考えられる無数の生涯の継起は、仏陀においてこそ実在ではないが、聴衆の立場から見れば、それは否定できない事実である。
(同上、p.84)

この部分を読むと、釈尊にとって輪廻は現実味はなく、さほどの重大事でもなかったらしい。聴衆のほとんどが輪廻を信じていたので、それにあわせて説法をしただけのようだ。ひょっとしたら、もし聴衆のほとんどが唯物論者であれば、それにそって説法したのかもしれない。
考えてみれば、これは毒矢のたとえから類推すれば、容易に推測できることではある。釈尊にとっては、現実の苦にどう対処するかが最重要であり、それ以外の部分……輪廻があるかないかなどには大して関心はなく、したがって輪廻を信じる者に対して、強いてそれを改めることを求める必要性も認めず、それはそのままにして説法することにしていたのだろう。
無我と輪廻を同時に説くというのは、矛盾しているように思えたけれども、上のように考えるなら、つじつまは合いそうではある。ただ釈尊は輪廻を現実とは考えていないのに、現実であるかのように説法したのだとすれば、これは嘘になるのではないかという疑問は残る。これについては、「いや嘘ではなく、方便だ。釈尊は嘘つきではない」とすることもできるだろうが、もしそれが本当であればいささか方便に頼りすぎではないかという気がしないでもない。


*晩年のことば
死期をさとったころの釈尊は、次のように語ったという。

「アーナンダよ、私は法をすべて裏表の区別なくそっくり教えてきた。私の法には秘密はない。私はこれまでも教団を統率してきたつもりはない。今さら教団にむかってあらためて指図を与える必要はない。私は八十歳の高齢に達し、私のからだはボロ車のようにがたぴし動いているだけだ。
アーナンダよ。汝たちは自分自身を燈明とし、自分自身をよりどころとせよ。法を燈明とし、法をよりどころとせよ。」
すべての人は自分自身と真理そのものの他のものをたよりとしてはいけないということは、最初の説法以来四十年のあいだ仏陀の一貫して変わらない教であった。仏陀の滅後もその弟子たちはこのきびしい原則を守らねばならなかった。
 (同上、pp.118-119)

これについては、過去に記事にしたことがある。
渡辺照宏氏の解説を読むと、自分自身と真理とをこそ拠り所とせよというのは、「最初の説法以来四十年のあいだ仏陀の一貫して変わらない教」だったとのことである。これはつまり、仏陀が存命中である間も、一貫して変わらない教えだったということなのだろう。
「自分自身と法とを拠り所とせよというのは、仏陀なき時代の教えであって、仏陀の存命中は仏陀を拠り所とすべきである」という話を聞いたこともあるけれども、どうやら渡辺照宏氏はそのようには考えていないようである。
「私は法をすべて裏表の区別なくそっくり教えてきた。私の法には秘密はない。」という言葉も、深いものがある。宗教には、秘儀、秘術といったものがつきもののだろうが、釈尊にはそのようなものはなく、すべて説き切ったと宣言している。この点、神秘主義とは無縁のようだ。
考えてみれば、元々、真理とは秘儀、秘術の類とは正反対のものなのかもしれない。真理は、遍く存在しているものである。遍く存在する真理を隠すことなんかできるわけがない。もしも小さな握り拳の中に隠せる教えがあったとしたら、それは普遍の教えではないだろうし、真理ではないにちがいない。


*現実主義者?
釈尊の教えは、かぎりなく現実主義的のように思える。
いっさいは変化し、移ろいゆくものである。その背後にアートマン、霊魂だのといった永遠不変のものは認められない。現実とは思うようにならないものだ。……
こういってはなんだけどは、釈尊の教えには、「見たまんまだろう」「当たり前のことじゃないか」と思えるところは多い。
でもこれは釈尊はものごとをありのままに見ることができたことを示しているのだろう。これはすごいことだ。普通の人は、宗教、文化、習慣などにとらわれて、そういう色眼鏡を通してしか、現実を見ることはできない。でも釈尊は、それらから離れて、直に現実を見ることができたのだろう。それのみならず、その言行録をみると、宗教、文化、習慣などにとらわれている人を、蔑んだり、馬鹿にしたりすることはなく、寛容な態度で接していたらしい。
現実の釈尊がどのような人物であったか、本当のところは分からない。でも上のような人物であったならば、賢明でありながらも、大きな包容力を持っていたにちがいない。釈尊は在世時はもちろん、亡くなってから二千年以上も経っているいまもなお多くの人々を魅了し続けているけれども、その理由はこのあたりにもあるのかなあと思う。〈了〉