*事実と願望
前記事の「 『仏教』(岩波新書) 渡辺照宏著」を書き終えてから気が付いたのだけれど、輪廻は仏陀にとっては実在ではないが、衆生からみたら事実であるというのは、「神はすべてを予定しているが、人は自由である」というのと、なんか似てるようだ。
下は、訳者による「神学大全」の一部の略である。
前記事の「 『仏教』(岩波新書) 渡辺照宏著」を書き終えてから気が付いたのだけれど、輪廻は仏陀にとっては実在ではないが、衆生からみたら事実であるというのは、「神はすべてを予定しているが、人は自由である」というのと、なんか似てるようだ。
下は、訳者による「神学大全」の一部の略である。
「神はすべてを予定している。しかし、予定は人間の行為から自由を奪わない」ということに尽きる。別言すれば、神の立場においては、すべてが予定されている。しかし、人間の立場においては、人間は自己の行為において(もちろん制約はあるにしても)自由である。(『世界の名著 続5 トマス・アクィナス』山田晶訳、中央公論社、昭和50年、p.494)
神の摂理がすべてに及んでいるのであれば、何がどうなるかはすべて神の摂理によって決定されており、そこには人の自由意思の存する余地はないというのはよくわかる。実にすっきりした考え方である。
でも上の書物では、さらにその後で、「神の摂理は或る事物には必然性を賦与するが、或る事物には必然性を賦与しない」だとか、救いを「予定されていない人間はいくら努力しても無駄であるという絶望」にとらわれるかもしれないなどと、さまざまな議論を重ねた上で、すべては決定されているけれども、それでも人には自由があるという結論に至っているようだ。
これは、〝わたし〟というものは、何らかの縁によって各要素が集まった上に生じているのだから、各要素が離散すれば〝わたし〟はなくなるのだとすれば、それで済むのに、わざわざその上に、木で竹を接ぐようにして、〝わたし〟は肉体が滅んだ後も存在し、輪廻し続けるなどと付け足すのと相似形のようだ。
こうしてみると、事実より願望を優先させるという点では、どの宗教も同じなのかなあと思えてくる。もっともこれは、善いとか、悪いとかではなくて、人間とはそういうものだということなのだろう。
でも上の書物では、さらにその後で、「神の摂理は或る事物には必然性を賦与するが、或る事物には必然性を賦与しない」だとか、救いを「予定されていない人間はいくら努力しても無駄であるという絶望」にとらわれるかもしれないなどと、さまざまな議論を重ねた上で、すべては決定されているけれども、それでも人には自由があるという結論に至っているようだ。
これは、〝わたし〟というものは、何らかの縁によって各要素が集まった上に生じているのだから、各要素が離散すれば〝わたし〟はなくなるのだとすれば、それで済むのに、わざわざその上に、木で竹を接ぐようにして、〝わたし〟は肉体が滅んだ後も存在し、輪廻し続けるなどと付け足すのと相似形のようだ。
こうしてみると、事実より願望を優先させるという点では、どの宗教も同じなのかなあと思えてくる。もっともこれは、善いとか、悪いとかではなくて、人間とはそういうものだということなのだろう。
*シンプルに考えると
先に書いたことではあるけれど、シンプルに考えると、すべては神の摂理に従うものであるならば、すべては神の摂理によって決定されていて、人に自由はないというのが自然である。これは仏教風に表現すれば、すべては仏法に従っており、決定されていて、人に自由はないともいえるだろう。
また全知全能の神が存在するならば、その神は未来に起きることはすべて知っているのであり、それなら未来は既に決定していて、人には自由はないことになる。同様に、もし仏が全知であるならば、未来は既にに決まっていることになり、人に自由はないだろう。
ひょっとすると、これは逆方向にも考えられるかもしれない。たとえば、人は自由だとすると、全知全能の神や仏は存在しないし、すべてを統べる神の摂理も仏法も存在しないという風に。
先に書いたことではあるけれど、シンプルに考えると、すべては神の摂理に従うものであるならば、すべては神の摂理によって決定されていて、人に自由はないというのが自然である。これは仏教風に表現すれば、すべては仏法に従っており、決定されていて、人に自由はないともいえるだろう。
また全知全能の神が存在するならば、その神は未来に起きることはすべて知っているのであり、それなら未来は既に決定していて、人には自由はないことになる。同様に、もし仏が全知であるならば、未来は既にに決まっていることになり、人に自由はないだろう。
ひょっとすると、これは逆方向にも考えられるかもしれない。たとえば、人は自由だとすると、全知全能の神や仏は存在しないし、すべてを統べる神の摂理も仏法も存在しないという風に。
*知ることと、受け入れること
こういう考え方は、受け入れ難いと感じる人もいると思う。それが当然でもある。でも、ほんとうの真理を覚るには、自分の信仰、期待、願望などを乗り越えなくてはならないというのも、一面の真実を語っているだろうから、ややこしい。
救いや慰めを最優先とするか、事実を知ることを最優先とするか、悩ましいところである。冷酷な事実を知って傷付くよりは、甘い嘘を信じて幸福でいる方が賢明かもしれない。でも嘘のなかで死んでゆくよりは、たとえ冷酷な事実であっても、きちんと知っておきたい気もする。これについては、どちらを選ぶべきか、容易には決められそうにない。
こうしてつらつらと考えてみると、案外、真理は、知ることよりも、受け入れることの方が難しいものなのかもしれない。別な言い方をすれば、真理は、それを受け入れる準備ができた者であってこそ、それと認識できるということかな。
とすれば、真理というものは、やみくもに追い求めるべきものではなくて、熟した実が自然に落ちるのを待つように、気を長くして持つべきものなのだろうか。それなら真理を知るのに一番肝要なのは、長生きをするということかな……うーん、結局、あちこち彷徨い、迷ったあげくに、長生きはいいことだという、あたりさわりのないところに落ち着いたようだ。 〈了〉
こういう考え方は、受け入れ難いと感じる人もいると思う。それが当然でもある。でも、ほんとうの真理を覚るには、自分の信仰、期待、願望などを乗り越えなくてはならないというのも、一面の真実を語っているだろうから、ややこしい。
救いや慰めを最優先とするか、事実を知ることを最優先とするか、悩ましいところである。冷酷な事実を知って傷付くよりは、甘い嘘を信じて幸福でいる方が賢明かもしれない。でも嘘のなかで死んでゆくよりは、たとえ冷酷な事実であっても、きちんと知っておきたい気もする。これについては、どちらを選ぶべきか、容易には決められそうにない。
こうしてつらつらと考えてみると、案外、真理は、知ることよりも、受け入れることの方が難しいものなのかもしれない。別な言い方をすれば、真理は、それを受け入れる準備ができた者であってこそ、それと認識できるということかな。
とすれば、真理というものは、やみくもに追い求めるべきものではなくて、熟した実が自然に落ちるのを待つように、気を長くして持つべきものなのだろうか。それなら真理を知るのに一番肝要なのは、長生きをするということかな……うーん、結局、あちこち彷徨い、迷ったあげくに、長生きはいいことだという、あたりさわりのないところに落ち着いたようだ。 〈了〉