その者が仏陀かどうかは
その説くところをみればわかる
という考え方がある
その説くところをみればわかる
という考え方がある
この背景には
仏陀の法を説いている者は、仏陀であり
仏陀の法を説けない者は、仏陀ではない
という理屈があるのだろう
仏陀の法を説いている者は、仏陀であり
仏陀の法を説けない者は、仏陀ではない
という理屈があるのだろう
これはもっともなことである
でも
よく考えてみれば
仏陀の法かどうかは
仏陀にしか判断できないのではなかろうか
よく考えてみれば
仏陀の法かどうかは
仏陀にしか判断できないのではなかろうか
仏陀であれば、仏陀の法を体得しているだろう
それなら、「これは仏陀の法だが、あれは仏陀の法ではない」といえる
それなら、「これは仏陀の法だが、あれは仏陀の法ではない」といえる
でも
仏陀の悟りを得ていない者は
仏陀の法を体得していないのであり
仏陀の法がいかなるものかは知らないのだ
それなら、「これは仏陀の法だが、あれは仏陀の法ではない」といえるわけもない
仏陀の悟りを得ていない者は
仏陀の法を体得していないのであり
仏陀の法がいかなるものかは知らないのだ
それなら、「これは仏陀の法だが、あれは仏陀の法ではない」といえるわけもない
この点からすると
「その者が仏陀かどうかは、その説くところをみればわかる」
という判別方法は、一般人にとって有効とはいえない
「その者が仏陀かどうかは、その説くところをみればわかる」
という判別方法は、一般人にとって有効とはいえない
やはり
仏陀かどうかの判断は
昔からある三十二相によるのが
もっとも簡便、確実であるようだ
仏陀かどうかの判断は
昔からある三十二相によるのが
もっとも簡便、確実であるようだ
三十二相を備えた仏陀が語るのは、仏陀の法であるが
三十二相を備えていない者が語るのは、仏陀の法ではないと。