キリスト教というと殉教のイメージがある。キリシタン弾圧からくる連想かもしれない。
だから、とあるクリスチャンに聞いてみたことがある。「洗礼を受けたということは、殉教も覚悟しているということなのだろうか」と。
そのこたえは歯切れの悪いものだった。「そうあるべきだろうけど、なかなかねえ……」という風に、殉教できないという方に傾いたニュアンスだった。
ただ自分はどういうわけか、これを聞いて「本当に信じてるんだなあ」と感動したのだった。失礼な質問に真面目にこたえてくれて有り難くもあった。
それにしても、「殉教できない、信じ切れるか分からない」という言葉を聞いて、「本当に信じてるんだなあ」と感じるとは、我ながら不思議である。信仰とは、矛盾、不合理を超えるというけれど、これもそういうことなのだろうか。
ちなみに自分はこれと反対の経験もある。さる宗教信者が、「自分は絶対に棄教しない。何があっても信じぬく」と宣言するのを聞いて、「本当には信じてなさそうだ」と感じてしまったのである。一時の感情に流されてるだけにしか思えなかった。
「信じ切れないかもしれない」という言葉に信仰を感じ、「信じ切れる」という力強い宣言には不信仰を感じるなんて、つくづく信仰とは分からないものだなあと思う。信仰は本当に不思議なものである。〈了〉
◇◆ 追記 20170207 ◆◇
ふと思ったのだが、これは自分を高くする者は低くされ、低くする者は高くされるということに関係あるかもしれない。
そうであれば、「信じ切れないかもしれない」という謙虚さに崇高さ(信仰)を感じ、「信じ切れる」という宣言に傲慢さ(不信仰)を感じたとしても、ある意味、当然なのかもしれない。
うーん、やっぱり信仰とは不思議なものである。
信仰をネタにして
人気を競い合うこと自体
狂ってるんだよ
コピペも糞もねーよ
キチガイ
http://ameblo.jp/an9ue2nfb/entry-12246538244.html
tam
がしました