最近は、神学に興味が出てきたので、初学者用のそれを手に取ってみた。読み始めてすぐに自分には難しいと思ったが、それでも下の部分には共感できた。
旧約聖書の律法にせよ、新約聖書に記載されたイエスのたとえ話にせよ、それらを固定した道徳的規則と考えてはならない。そのような方法で聖書を解釈しても、啓示の現実を取り出すことはできない。(佐藤優著『神学の履歴書 初学者のための神学書ガイド』新教出版社、2014年、p.29)
イエスのたとえ話などを、固定した道徳的規則と考えてはならないというのは、理解できるように思う。聖書に記された教えには、かなり激しいものもあるし、それをそのまま実践しなければならないとしたら、これは大変だ。教条主義は宗教的にも、現実的にも難がある。この辺りの考え方は、理解、共感できるように思う。
聖書における禁止、命令は一回的なのである。そのときのコンテキストの中でしか理解できない。従って、聖書は、人間の倫理を例示しているのではない。時間と場所に制約された、神の指令が聖書に記されていると解すべきだ。(省略) われわれは、時間から超越した「永遠の真理」を追及するのではない。真理はすべて現実的なのである。(同上、pp,30-31)
この部分については、心底、はっとさせられた。聖書における命令は、その時、その場所による限定的なものであって、倫理を例示しているのではない、永遠の真理を追うのではないって、こんなことは考えてもみなかったことだ。
これまで自分は、聖書にしろ、仏典にしろ、聖典とされるものは、永遠の真理を、その時、その場所に応じて、表現したものだと考えていた。言い換えれば、聖典には、永遠の真理の応用例が記されているという考え方だ。だから、聖典を正しく読み解くならば、永遠の真理をつかむことができるだろうと思ってた。でも上の主張からすると、自分の考え方はとんでもない見当違いということになりそうだ。
考えてみれば、宗教信者のなかには、聖典のことばによって現実を解釈する人はよくいるし、傍からそれを見ていて違和感を感じるのもよくあることだ。そういう時は「この人の聖典の解釈、応用はおかしいんじゃないか。教条主義的にすぎるんじゃないかな」と思うくらいだったけれども、実際にはそれだけにとどまらず、聖典を目の前の現実に応用しようとすること自体がおかしなことだったのかもしれない。
「聖書における禁止、命令は一回的なのである」
「聖書は、人間の倫理を例示しているのではない」
「時間と場所に制約された、神の指令が聖書に記されている」
「聖書は、人間の倫理を例示しているのではない」
「時間と場所に制約された、神の指令が聖書に記されている」
神学ではこういう考え方は、前からあるのかもしれないが、自分は初耳であるし、目からウロコが落ちた心持がする。〈了〉