信者によるアンチ批判をみると、いつも大体同じようなことをいっているようなので、Q&A方式で、自分なりにこたえてみたいと思います。


Q アンチは悪口ばかりではありませんか。
A アンチからすると、正しいことを言っているという意識はあっても、悪口をいってる意識はあまりないのではないかと想像します。


Q アンチ情報によって、悲しい思いをしている信者さんもいます。私たちの信仰を傷つけないでください。
A アンチ情報が嫌であれば、アンチ情報が書かれているページは読まないようにしたらいいと思います。


Q 信じない者もいれば、信じる者もいる。それでいいのではないですか。
A それが現実だと思います。信じる者もいれば、信じない者もいる、入信する者もいれば、退会する者もいる、それぞれ自分の気持ちに正直に生きればいいかと思います。


Q 幸福の科学を退会して幸福になったのなら、もうそれでいいのではありませんか。なぜ、いつまでも幸福の科学を批判するのですか。
A 退会して幸福になったなら、「みなさん、退会した方が幸福になれますよ」といいたくなるのが人情でしょう。
入信して幸福になった信者が、「みなさん、HSを信じたら幸福になれますよ」と伝道するのと同じことです。


Q アンチの意見は、概して、薄っぺらくて、宗教的な深みがないように思います。
A これは言い方を変えれば、アンチの意見はとてもシンプルだということでしょう。
たとえば、信者だったら、霊言については、言語中枢だとか、霊の認識力だとかさまざまな理屈を重ねたうえで真であるとします。
でもアンチ側は、「霊言には事実誤認が散見される。本物ではなかろう」とシンプルに考えます。
理屈を重ねるほどに真理から遠退くこともあるのですから、こういうシンプルさはよいことであると思います。


Q 総裁先生の背後に、黄金色の光が放たれているのを見ました。私は総裁先生を信じています。
A 黄金色の光が見えたからといって本物とは限らないでしょう。その他、どんな奇跡も、本物の証とはならないでしょう。
とはいえ黄金色の光が見えたことをもって本物と信じることは、信教の自由ではあります。


Q 信者同士であっても、時には、言い争いになることもあります。幸福の科学の信者であっても、魂修行の途上にあるのです。
A 喧嘩があったらからといって即だめだとは思いません。ただ喧嘩が多すぎるのは困りものです。
ユートピア建設を目指すとしつつも、教団内でのいざこざが絶えないというのでは仕方ありません。


Q 総裁先生の教えは、素晴らしいものです。多くの人を幸福にする教えです。
A 愛が大切だとか、よく学びましょうとか、間違ったら反省しましょうなど、道徳的な教えはいいと思います。
ただそういう教えは、他所でも学べることなので、それによって幸福の科学でなければ学べないというのは無理があるかもしれません。


Q 総裁先生は、あの世では全知全能ですが、地上では肉体をまとっているため、そのようにはなっていないのです。
A あの世では全知全能でも、地上ではそうではないというのならば、そもそも全知全能ではないということでしょう。
あの世にいるか、この世にいるか、場所によって能力が制限されるなら、それは全知全能ではありません。


Q イエスキリストは十字架にかかりました。神であっても、この世では思い通りにできず、完全ではありません。
A イエスキリストの生涯は、十字架もふくめて、あらかじめ決められていた通りのもので100パーセント完全だったといいます。十字架にかかったことをもって、全知全能ではなく、完全ではなかったということにはなりません。


Q アンチは布施の意味が分かっていないのではないでしょうか。
A これについては、種村さんが詳しく書いています。アンチが布施を批判しているのは、ようするに三輪清浄が崩れているのではないかということでしょう。



Q 進化論はまちがいです。
A HSでも初期のころは、おもいによって、まずは単純な構造の生物を創造し、それを少しずつ複雑な構造をもつ生物にしていったという風に説明していたと思います。これも一種の進化論かと思います。進化の原理を適者生存などではなく、高級霊の念、おもいによるとしているだけで、生物の進化自体は認めているかと。


Q 退会者は、三宝帰依ができていなかったのではないでしょうか。
A 退会者のなかには、大川隆法総裁を仏陀だと信じ続けている者もいれば、信じていない者もいます。
前者については教団への帰依ができていないという批判は当たっているかもしれませんが、後者についてはそもそも大川総裁を仏陀だと認めないわけで、三宝帰依がどうこうという問題が発生する余地はないかと思います。


Q 退会者は、退転したということです。
A 退会し、アンチとなった者のなかには、初期肯定派という人たちもいます。
HSでは、初期の教えは方便だったとしていますが、この人たちは初期の教えこそが正しいと信じ続けています。
この人たちの場合、現HSを否定し、退会したからといって、かならずしも退転したとは言えません。むしろ当初の信仰を貫いていると言うべきかと思います。


Q 退転者の言うことは、どうも信用できないように思うのですが……。
A 棄教、改宗した人は信用できないというのは極論にすぎるでしょう。それでは、パウロ、アウグスティヌスなども批判されることになってしまいます。
棄教、改宗した人は信用できないというのは、ある意味、ドナトゥス派の考え方と共通点があるかもしれません。



Q 無神論、唯物論はまちがいです。
A アンチのほとんどは、神を信じていると思います。彼らは単に大川総裁は神ではないとしているだけで、神はいないといっているわけではありません。
また神の定義を、人格神ではなく、自然法則だとするならば、世の中には無神論者はほとんどいなくなるのではないかと思います。


Q アンチはストーカーです。
A ストーカー規制法の第二条からすると、ストーカー行為とは、大雑把に言えば、痴情のもつれから特定の人物につきまとい、その安全を脅かすことを繰り返すことのようです。
アンチの場合は、宗教上の信念から、特定の宗教または信者を批判したり、議論しているのだろうし、ストーカーとはちょっと違うように思います。

・ストーカー行為等の規制等に関する法律
http://law.e-gov.go.jp/htmldata/H12/H12HO081.html


Q アンチは、大川総裁のことを神ではないといいます。しかし実際には神とは何かを知らないままに、神について語っているのではないですか。
A 聖書では、神は全知全能だとされています。大川総裁が全知全能でないならば、聖書でいう神ではないことになります。


Q 大川総裁は仏陀です。
A 仏教では、仏の特徴として三十二相があるとしています。この特徴がなければ仏教でいう仏陀ではないことになります。
神や仏陀の定義はさまざまあるでしょうが、どの定義によっても、大川総裁を神、仏陀とするのは難しいように思います。


Q 大川総裁は、主エルカンターレです。
A HS教義では、大川総裁こそが神だとされるようです。でもHS教義は、大川総裁の言葉によってできていますから、「HS教義によって、大川総裁は神とされる」というのは、「大川総裁の言葉によって、大川総裁は神とされる」というのと同じことです。
「大川総裁が自分は神だといってるから、神なんだ」というのは、信者以外にはなかなか受け入れられない論理だろうなあと思います。


Q アンチはもっと素直になってください。
A 退会してアンチになった人たちの言説をみると、良心の声に“素直に”耳を傾けることで、退会し、アンチになった人が多いようです。


Q アンチは信仰の尊さを理解していないようです。信仰を否定してはいけません。
A 大概のアンチは信仰を否定しているわけではないと思います。アンチが批判しているのは、神を信じることではなくて、神でないものを神だと崇拝することでしょう。


Q アンチは、教団内で高い評価を得られなかったために、退転してアンチになったのではないですか。
A アンチにはいろいろな人がいますから、そういう人もいるかもしれません。でも有名アンチは、教団内で相応の地位にあった人が多いようですから、教団内で出世できなかったからアンチになったというのは的外れに思います。


Q HSでは、洗脳、マインドコントロールなんてありません。
A HSでは信者に自己変革を求めているかと思います。これは要するに、今までの考え方を改めて、HS教義に基づく価値観によって生きることを求めているということでしょう。これが何を意味しているかは、言うまでもないことです。
また教団内では、それまでは不熱心だった信者が、急に熱心になることを「目覚めた」と評していたことがありました。この「目覚めた」というのが何をあらわているかも、言うまでもないことです。


Q アンチのHS批判は、些細なことばかりで、揚げ足取りに終始しているようです。
A 些細なことの中に重大な問題が隠されていることもあります。神は細部に宿るともいうではありませんか。


Q アンチは感謝が足りないのではないですか。
A こういう個人の徳目のようなものは、アンチだとか、信者だとかいう属性によるのではなく、人によるのではないかと思います
ちなみに私がアンチ発言をはじめたのは、退会に導いてくれた先輩アンチへの感謝、恩返しという意味もありました。信者からしたらヘンテコな考え方に思えるでしょうが、そういう意識もあるということです。


Q アンチは自分の意思でアンチになったんですか。下からのものに操られているのではありませんか。
A 信者と話していて、とても残念に思うことの一つとして、自分の気持ちを率直に話しても、「それは本当にあなたの言葉ですか。悪霊に言わされてるだけじゃありませんか。本当のあなたは、そんなんじゃないはずです」などと言われてしまうことです。自分の発した言葉は、そのままの形で受け止めてもらえず、かならず教義によって再解釈され変形させられてしまう。これはどうにかならないものかなあと思います。


論点は、この他にもいろいろありそうですが、今回はとりあえずここまで。
機会があれば、追記したいと思います。

〈つづくかも?〉