神様、仏様の前に立つときは、つい緊張してしまう。神社参拝の折には、無作法なまねはしないように注意するし、仏壇にお供えするときは、なるだけよいものをきちんと置くようにする。お墓参りのときは、生前は「おまえ」呼ばわりした相手の墓であっても、背筋を伸ばして手を合わせるようにする。

「神様、仏様を信じているのか」と問われれば、「はい」とは言い切れないものはあれども、それでも神様、仏様の前では失礼があってはならないという気持ちは強いのだから不思議である。頭では、神様、仏様の存在は疑わしいと気づきつつも、感性の方ではその存在をリアルに感じるのだから困ったものだ。

こういう場合、魂の表面は唯物論に浸食されても、その奥深くでは神仏の実在を知っているのだと仮定すれば話は丸く収まるのかもしれない。でも自分は、仮定を仮定としておくだけならいいが、仮定が真であると証明されないうちに真だと信じ込むことはしたくないのだから仕方がない。我ながら面倒くさいやつだなあと思わないでもないが、自分のことがどんなに嫌でも、自分と絶交するわけにはいかないのだからどうにもならない。

やっぱり、神仏を敬おうとする気持ちが、どこから来てるのかはよくわからない。ただ、神仏を敬わないではいられない衝動があることだけは確実である。これに逆らったり、無視したりすることは難しい。福沢諭吉のように御神体にいたずらするようなまねは、私には到底できることではない。そうであれば、とりあえずはこの感覚に素直に従っておくのが無難なのかもしれぬ。〈了〉