柳田國男の文章を読んでいたら、次の一節を見つけた。

あるいは自業自得といふが如き、冷淡なる批判を受けて居る家庭でも、弱き者小さき者の惱んで居るまでは天意とは思はれぬ。
(「同情週間の成長」『定本 柳田國男集 別巻第二』柳田國男著、筑摩書房、昭和39年、p.205)

子供が苦しめられているのは天意とは思われないか……。これは古くからある問題であり、現在でもちっとも解決できていないことであるように思う。本当になぜ、いたいけな子供が不幸なめに遭うのだろう。さっぱり分からない。

これについては、宗教的にはいろいろ説明されているのは知ってはいる。前世のカルマだとか、神は人の肉体生命や幸不幸よりも霊的な成長を重視しているとか、本人がそういう人生計画を立てて生まれてきたとか……。多分こういう説明を信じることができれば、子供の不幸をみても落ち着いていられるのだろう。

でも自分の場合はどうもそうはできないらしい。というより、そういう話を信じることで、子供の不幸に無感覚になってはいけないような気がする。子供の不幸をみて、「これはカルマですね」だとか、「自分が犠牲になることで周囲に霊的覚醒をもたらそうと、あえて厳しい人生を選んだんですね。きっと高級霊なのでしょう」などと考えて納得してしまうのは、人としてどうかと思えるのである。こんな答えで納得してしまってはいけないのではないかと思えるのである。

世の中には答えのない問題があるというけれど、こういったことを考えると、答えのない問題だけではなくて、答えを出してはいけない問題もあるのかもしれないと思う。〈了〉