*全体的な感想
ひさしぶりに、霊に関する本を読んでみた。でもタイトルを見たところでは、霊魂の存在を証明する本のように思えたが、実際はそうではなく、魂の存在を信じるべきことと、それによって得られる幸福について多くのページを費やしている。魂の存在証明については、全く触れられていないわけではないが、懐疑的な人をも納得させるほど十分に説明されているかといえば、そうとは言えぬ。
この点、自分としては残念ではある。ただそれでもキリスト教、スピリチュアリズム、奇跡などについて触れた部分は、分かりやすく説明してあるし、これまで知らなかったことも多々あるし、おもしろく読めた。よって全体的な感想としては、ちょっと肩透かしをくった気がしないでもないが、それでも先をグングン読みたくなるほどおもしろかったとは言える。
次に、本書を読みつつ、特に興味をひかれた箇所と、その感想をメモしてみる。
この点、自分としては残念ではある。ただそれでもキリスト教、スピリチュアリズム、奇跡などについて触れた部分は、分かりやすく説明してあるし、これまで知らなかったことも多々あるし、おもしろく読めた。よって全体的な感想としては、ちょっと肩透かしをくった気がしないでもないが、それでも先をグングン読みたくなるほどおもしろかったとは言える。
次に、本書を読みつつ、特に興味をひかれた箇所と、その感想をメモしてみる。
*立ち位置は明らかに
まず著者は、早い時点で、自らの考えを明らかにしている。これには好感が持てた。
私はもちろん、魂は実存する、と考えています。死後の世界もある。(『人は老いて死に、肉体は亡びても、魂は存在するのか?』渡部昇一著、海竜社、2012年、p.40)
著者はクリスチャンであるというし、こういう信仰告白のようなことは割合に抵抗感がないのかもしれないが、識者としては多分、青山繁晴さんのような行き方が標準なんだろうなあと思う。青山繁晴さんは六分ころから霊に対する考え方について語っている。
・【青山繁晴】人生の意義と霊の存在、アイデンティティと祖国愛について[桜H29/5/19]
ちなみに自分の考えはどうかといえば、青山さんに近いかもしれない。もう何年も前の話ではあるが、夜中に目が覚めたときに、ふと同じ部屋で眠っている人を見たら、その頭から白い煙が出てきて、部屋を出て行ったのを見たことがあった。
その時は、自分は霊を見たと思ったし、もし自分に霊能力があったなら、白い煙でなくて、人の形の霊が見えたに違いないと思ったりもしたのだった。
でも今思い返してみれば、自分は白い煙を見たと思ったこと自体は事実であったとしても、それが錯覚でないとは限らないし、もし仮に錯覚でなかったとしても、その白い煙が霊であるかどうかは判然としないのである。結局、霊を見たとは断定できないということである。
自分はもともとは、「あなたの知らない世界」で紹介される体験談などはすべて事実だと信じるタイプではあったし、霊が存在するのは当然のことだと思っていた。でも最近は大体、上のような考え方になってきてはいる。霊や死後の世界は存在しないとはいわないが、霊や死後の世界は存在するという確たる証拠もなしに、「これが霊だ!」「これが死後の世界だ!」というのはよくないと思う。「霊や死後の世界は存在すると信じる」という信仰告白は自由だが、「霊や死後の世界が存在するのは事実だ」などと確たる証拠もなしに断言するようなことはしたくない。
でも今思い返してみれば、自分は白い煙を見たと思ったこと自体は事実であったとしても、それが錯覚でないとは限らないし、もし仮に錯覚でなかったとしても、その白い煙が霊であるかどうかは判然としないのである。結局、霊を見たとは断定できないということである。
自分はもともとは、「あなたの知らない世界」で紹介される体験談などはすべて事実だと信じるタイプではあったし、霊が存在するのは当然のことだと思っていた。でも最近は大体、上のような考え方になってきてはいる。霊や死後の世界は存在しないとはいわないが、霊や死後の世界は存在するという確たる証拠もなしに、「これが霊だ!」「これが死後の世界だ!」というのはよくないと思う。「霊や死後の世界は存在すると信じる」という信仰告白は自由だが、「霊や死後の世界が存在するのは事実だ」などと確たる証拠もなしに断言するようなことはしたくない。
*ウォレスの考え方?
これは著者が、ウォレスの考え方を紹介している箇所である。
進化論は、連続性を元にして成り立っている理論ですが、サルから人間までは、質的な飛躍が必要となります。ウォレスは、この飛躍が行われたのは、人間に、不滅の霊魂が入った時点があったからだ、と考えたのです。当然、普通の進化論とは合わなくなります。(同上、p.152)
これには二つの論点があるように思う。一つはサルと人間は連続しているかということと、霊魂は人間に先んじて存在したかということである。
一つ目については、感覚的には、サルと人間は似ている部分もあるが、大分違っている部分もあるように思う。サルと人間とは、質的に大きな差が感じられる。
でも進化論の本を読むと、サルと人間の遺伝子は、ほとんど同じで、違いはわずかしかないとしていたりする。この点からすると、両者は連続しているとは言えても、完全に別物だと言い切るのは難しい。
また、「人間に、不滅の霊魂が入った時点があった」ということは、人間の肉体ができるのに先んじて、不滅の霊魂が存在したということだろうか。これは霊魂の存在だけでなく、輪廻転生をも認める考え方につながりそうである。
でも進化論の本を読むと、サルと人間の遺伝子は、ほとんど同じで、違いはわずかしかないとしていたりする。この点からすると、両者は連続しているとは言えても、完全に別物だと言い切るのは難しい。
また、「人間に、不滅の霊魂が入った時点があった」ということは、人間の肉体ができるのに先んじて、不滅の霊魂が存在したということだろうか。これは霊魂の存在だけでなく、輪廻転生をも認める考え方につながりそうである。
*著者の考え方
ここでは、ウォレスの影響を受けた著者の考え方が語られている。
類人猿までは、進化論的発展を遂げてきたのかもしれません。しかし、そこから人間へは、クォンタム・リープが行われたのだと思います。ある飛躍が行われて人間の脳が生まれ、その時同時に、霊魂が生じた、と、私は考えるのです、だからこそ、類人猿と人間とでは、天地の開きができてしまったのです。(同上、p.154)
類人猿までは進化論で説明できるが、人間に関してはそうではないのであって、両者はまったくの別物だということらしい。
また著者は、「人間の脳が生まれ、その時同時に、霊魂が生じた」としている。
人間が完成したときに、他から、霊魂が入ってきたというのでなく、それと同時に霊魂が生じたというのである。これはつまり人は、前世を持たないということに通じる考え方のようである。
また人間の脳が生まれることで、霊魂が生じたということは、人間以外の生物は、霊魂を持たないということだろうか。人間以外の生物は、霊魂を持たない生存機械だと…? そういえばキリスト教の方には、そういう感じの考え方があったなあと思う。
人間が完成したときに、他から、霊魂が入ってきたというのでなく、それと同時に霊魂が生じたというのである。これはつまり人は、前世を持たないということに通じる考え方のようである。
また人間の脳が生まれることで、霊魂が生じたということは、人間以外の生物は、霊魂を持たないということだろうか。人間以外の生物は、霊魂を持たない生存機械だと…? そういえばキリスト教の方には、そういう感じの考え方があったなあと思う。
*どっちだろう?
ここはちょっと分かり難いところである。
脳が言語を生み出した時、同時に、霊魂も生み出される宿命だったのです。それは、人間の脳の中に、霊魂がすでに存在していたからなのです。(同上、p.163)
はじめの文を読むと、人間の脳ができた後で、言語と霊魂が同時に生み出されたとしているようである。でも前は、人間の脳と霊魂が同時に生まれたとしてたように思う。ここは分かり難い。
また次の文を読むと、人間の脳と霊魂は同時に生まれたのでなく、霊魂の方が先に存在していたというニュアンスがあるような気がする。ここも分かり難い。
この辺りのことは、いささか細かいことだし、別にどーてもいいんじゃないかという気がしないでもないが、先に述べた通り、霊魂は人間の脳より先に存在していたのか、それとも人間の脳と同時かそれ以後に生まれたのかということは、輪廻転生の有る無しに関わることであるし、けっこうな大問題ではある。
著者は、本書において、霊魂と死後の世界の存在については語ってはいても、輪廻転生についての発言はないようだし、これに対する関心はうすく、したがって上記の差異についても頓着せず、曖昧さが残ることになったのかなあ。
この辺りのことは、いささか細かいことだし、別にどーてもいいんじゃないかという気がしないでもないが、先に述べた通り、霊魂は人間の脳より先に存在していたのか、それとも人間の脳と同時かそれ以後に生まれたのかということは、輪廻転生の有る無しに関わることであるし、けっこうな大問題ではある。
著者は、本書において、霊魂と死後の世界の存在については語ってはいても、輪廻転生についての発言はないようだし、これに対する関心はうすく、したがって上記の差異についても頓着せず、曖昧さが残ることになったのかなあ。
*言語と霊性
ところで著者は、人間と他の生物の相違点として、言語の使用を挙げている。人間は言語を使用するが、他の生物は仕草、鳴き方などで情報伝達をすることはあっても、言語は使用できないとし、これをもって人間と他の生物とは質的に全くの別物だとしている。
でも自分は思うのだけども、言語の使用は、霊性の問題というよりも、のどの構造の問題ではなかろうか。たしかNHKの番組だったが、ネアンデルタール人はのどの構造上の問題があって、言葉をしゃべることが難しかったらしく、これによって生存競争に敗れて滅んだのではないかとしていた。これは見方によっては、大きな脳を持っていても、適切な発声器官を持っていなけば言葉は話せないということであろうし、言語の使用が即、霊性に直結しないことを示しているのではあるまいか。
また犬を見ていると、うれしくてたまらないときに、尻尾をちぎれんばかりに振ることがある。かなしいときには、明らかにしょんぼりして、涙を垂らすこともある。こういう事例をみると、犬は単なる情報を右から左に伝達をしているのではなく、自分の心を持ち、それを表現しているように思う。
とすれば、犬は心、精神、情緒……つまり霊性を持っているということである。犬が言語を使用できないことをもって、犬には霊性はないとは言えないのである。素っ頓狂なことを言うようだけども、犬が言語を使用できないのは、霊性の問題ではなくて、のどの構造の問題にすぎないのではあるまいか。
私は今のところ、このように考えるので、言語の使用の有無は、それによってのどの構造の相違は説明できても、霊性の有無の説明としては弱いのではないかと思う。
どうも私は、汎神論とか、アニミズムとかいう文化のなかで育ったせいか、山川草木すべてに霊魂が宿ってるというような考え方はわりと受け入れやすいのだけれども、人間だけが霊魂を持ち、他の生物には霊魂はないという考え方には抵抗があるようで、それが上のような考え方を生んでいるのかもしれない。
でも自分は思うのだけども、言語の使用は、霊性の問題というよりも、のどの構造の問題ではなかろうか。たしかNHKの番組だったが、ネアンデルタール人はのどの構造上の問題があって、言葉をしゃべることが難しかったらしく、これによって生存競争に敗れて滅んだのではないかとしていた。これは見方によっては、大きな脳を持っていても、適切な発声器官を持っていなけば言葉は話せないということであろうし、言語の使用が即、霊性に直結しないことを示しているのではあるまいか。
また犬を見ていると、うれしくてたまらないときに、尻尾をちぎれんばかりに振ることがある。かなしいときには、明らかにしょんぼりして、涙を垂らすこともある。こういう事例をみると、犬は単なる情報を右から左に伝達をしているのではなく、自分の心を持ち、それを表現しているように思う。
とすれば、犬は心、精神、情緒……つまり霊性を持っているということである。犬が言語を使用できないことをもって、犬には霊性はないとは言えないのである。素っ頓狂なことを言うようだけども、犬が言語を使用できないのは、霊性の問題ではなくて、のどの構造の問題にすぎないのではあるまいか。
私は今のところ、このように考えるので、言語の使用の有無は、それによってのどの構造の相違は説明できても、霊性の有無の説明としては弱いのではないかと思う。
どうも私は、汎神論とか、アニミズムとかいう文化のなかで育ったせいか、山川草木すべてに霊魂が宿ってるというような考え方はわりと受け入れやすいのだけれども、人間だけが霊魂を持ち、他の生物には霊魂はないという考え方には抵抗があるようで、それが上のような考え方を生んでいるのかもしれない。
*まとめ
前書きの部分を読むと、本書は、メモなどは持たずに霊魂について一挙に語ったものをまとめたものであるという。著者自身も、「粗削り」であることをことわってもいる。
それならば細かな部分について、ああだこうだ言ってみても仕方ないかもしれない。著者の霊魂観について大まかなことが分かればよしとすべきなのだろう。
でも著者の霊魂観、スピリチュアリズム観、キリスト教信仰などについて、もっと知りたかったなあと思うし、そこが詳しく説明されていないのはやっぱり残念ではある。著者はスピリチュアリズムを高く評価しているけれども、スピリチュアリズムは輪廻転生を説いているのであって、著者のカトリック信仰とは相反する部分があるだろうし、この辺りについては、どのように納得していたのだろうか。今更言っても詮無いことではあるけれども、著者の話はもう聞けないのは本当に残念である。
そういえば、書名も内容も忘れてしまったが、谷沢永一との対談で、キリスト教について語ったものを読んだ記憶がある。検索してみると、『「聖書」で人生修養』という本かな。著者の宗教観を知るにはよい本のようであるし、読み返してみようかなあと思う。〈了〉
それならば細かな部分について、ああだこうだ言ってみても仕方ないかもしれない。著者の霊魂観について大まかなことが分かればよしとすべきなのだろう。
でも著者の霊魂観、スピリチュアリズム観、キリスト教信仰などについて、もっと知りたかったなあと思うし、そこが詳しく説明されていないのはやっぱり残念ではある。著者はスピリチュアリズムを高く評価しているけれども、スピリチュアリズムは輪廻転生を説いているのであって、著者のカトリック信仰とは相反する部分があるだろうし、この辺りについては、どのように納得していたのだろうか。今更言っても詮無いことではあるけれども、著者の話はもう聞けないのは本当に残念である。
そういえば、書名も内容も忘れてしまったが、谷沢永一との対談で、キリスト教について語ったものを読んだ記憶がある。検索してみると、『「聖書」で人生修養』という本かな。著者の宗教観を知るにはよい本のようであるし、読み返してみようかなあと思う。〈了〉
tam
がしました