これは夏目漱石の言葉であるが、本当にその通りだなあと思う。
いったい何々主義という事は私のあまり好まないところで、人間がそう一つ主義に片づけられるものではあるまいとは思います(夏目漱石「私の個人主義」)
私事ながら、自分はとある宗教に傾倒したことがあったが、いくらも経たぬうちにそれは自分に合わないことに気づいてしまったのだった。サイズの小さい服を無理に着込んでいるようで窮屈になってしまったのである。
そこで何か代わりになるものはないかと、他の宗教や思想も調べてみたのだが、いずれも共感できる部分がある一方で、そうでない部分もあり、結局、心からすべてを受け入れることができる宗教も思想も見つからなかった。
こういう場合、謙虚で信心深い人であれば、自分に合う宗教を探すのでなく、宗教に自分を合わせる努力をするのだろうけれども、残念ながら自分はそういうタイプではないのだから仕方がない。
自分は、無宗教の家に生まれ育ち、正月は初詣、お盆は墓参り、クリスマスはケーキを食べてお祝いをしていたくちである。天照大神も、お釈迦さまも、イエスさまも、みんな神様だと思って手を合わせたくちである。つまり特定の宗教の枠内にとどまる生活はしてこなかった。これじゃあ、特定の宗教だけを信じ、その枠内で生活し続けるなんてできるわけもない。
さらには学校では、自分の個性を大事にしたり、自分が何を感じ、考え、望んでいるか自覚することを奨励されてきたのである。こういう風に、“私”という存在を強調し、自覚させる教育を受けていながら、今更“私”を取り去って、ただひたすら神の御心に従うとか、特定の思想のみに依拠して生活するなんて無理である。
巷では宗教人口は年々減少しているというけれど、結局それには上のように、無宗教的な生活と、“私”を促す教育が広まっていることも関係してるかもしれない。元来、人というものは、一つの思想だけで片付けられない存在であるところに、無宗教無思想な家庭が増え、私を促す教育をされたなら、特定の思想宗教の枠内にとどまっていられるわけもない。それをさせるには何らかの強制力を使いでもしなければ無理だろうが、今の時代、国教を定めるなんてできるわけもない。また死後の裁きだとか、地獄だとか脅したところで、それで恐れ入る人は少なかろう。これじゃ、どうしようもない。
こう考えてみると、今後も宗教が生き残っていくためには、熱い信仰をかきたてるのでなく、人に指図せず、束縛せず、無宗教的なゆるい方向に行くしかないんじゃないかなあと思う。外国であればまた話は違ってくるだろうけど、日本の場合は、(一部のカルトは例外としても)そういう傾向は今後もますます強まって行くのではあるまいか…。
〈了〉
神は、金銭を求めません。
神が人間に求めることは、
「神の子として生きること」です!!
tam
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