・渡部昇一『書痴の楽園』 #3 知の巨人と夏目漱石『こころ』
https://www.youtube.com/watch?v=IZ98lH2QwiU
https://dhctv.jp/movie/100254/
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「書痴の楽園」を見ていたら、渡部昇一は、漱石の「こころ」について、ずいぶん率直な感想を漏らしていた。17分辺りから、かなり痛烈な批判になってる。
かと思うと、28分辺りでは、マーク・トウェーンの「王子と乞食」をおもしろかったと高評価している。これも知的正直ということだろうか。
普通の大人だったら、「こころ」は奥深い作品だと持ち上げて、「王子と乞食」は子供の読み物として一段低く見そうだけども、渡部昇一はそういう知的な見栄とは関係ないのだろう。うらやましい限りである。
ところで、知的正直といえば、漱石のいう自己本位を思い出す。
たとえば西洋人がこれは立派な詩だとか、口調が大変好いとか云っても、それはその西洋人の見るところで、私の参考にならん事はないにしても、私にそう思えなければ、とうてい受売をすべきはずのものではないのです。私が独立した一個の日本人であって、けっして英国人の奴婢でない以上はこれくらいの見識は国民の一員として具えていなければならない上に、世界に共通な正直という徳義を重んずる点から見ても、私は私の意見を曲げてはならないのです。
私はこの自己本位という言葉を自分の手に握ってから大変強くなりました。彼ら何者ぞやと気慨が出ました。(夏目漱石「私の個人主義」)
これはつまり、どんなに権威ある人の言葉であっても、それを鵜呑みにすることなく、自分に正直であろうということだろうと思うけれども、これは本当に大事なことだと思う。でも案外に、これを実践するのは難しかったりするんだけど…。
ちなみに吉田松陰も、これと似たことを書いてる。
経書を読むにあたって、第一に重要なことは、聖賢におもねらないことである。もし少しでもおもねるところがあると、道は明らかにならぬし、学問をしても益なく、かえって有害である。(『日本の名著31 吉田松陰』松本三之介責任編集、中央公論社、昭和48年、p.51)
これは「孔孟余話」の一節(現代語訳)だけども、このあと、孔子や孟子に対する厳しい批判の言葉が続いている。孔孟は生国を離れて、他国に仕官先を求めたことをもって、君臣間の本義を誤ったというのである。
この批判の妥当性には様々な議論はあるかもしれないが、少なくもこの点については吉田松陰は、聖賢におもねることなく、知的正直で、自己本位に徹しているとは言えそうに思う。
知的正直、自己本位、聖賢におもねらない…座右の銘にしたい言葉である。
〈了〉