吉田松陰の手紙を読んでいたら、次の文章があった。


世俗にも神信心といふ事する人あれど、大てい心得違ふなり。神前に詣でて柏手を打ち、立身出世を祈りたり、長命富貴を祈りたりするは皆大間違なり。
(『日本の名著31 吉田松陰』松本三之介責任編集、中央公論社、昭和48年、p.381)

これは共感できるなあ。自分も、神にこうしてほしい、ああしてほしいということばかり祈るのはよくないと感じる。他の人の幸福を祈るならまだしも、自分のことばかり繰り返し祈るのは御利益信仰であって、神様を信じてるというより、自己の利益を望んでるだけのようだ。
こういう態度は得てして、御利益があれば信じるが、御利益がなければ信じないというものになりがちだろうし、そんなものは本当の信仰ではないだろう。


神と申すものは正直なる事を好み、又清浄なる事を好み給ふ。夫れ故神を拝むには先づ己が心を正直にし、又己が体を清浄にして、他に何の心もなくただ謹み拝むべし。 
(同上)

聖書にはたしか、神に祈る前に、もし争っている人がいるなら、まずその人と和解しなさいという教えがあったと思う。
神を拝むまえに、心身を清浄にしなさいというのは、この教えと通ずるものがありそうだ。
理屈を考えれば、神は平和であり、正直であるとすれば、人の心に平和があり、正直であればそこに神が現れ、人の心に平和も正直もなければ、いくら祈っても神は姿を見せないということだろうか。


菅丞相(菅原道真)の御歌に、「心だに誠の道に叶ひなば祈らずとても神や守らん」。又俗語に、「神は正直の頭に舎(やど)る」といひ、「信あれば徳あり」といふ、能々考へて見るべし。扨て又仏と申すものは信仰するに及ばぬ事なり。されど強ち人にさからうて仏をそしるも入らぬ事なり。
(同上)

これは大雑把に言えば、仏を信ずるよりも、まずは誠の心が大事だということだろうか。「神よ、神よ」と神の名を連呼して、祈ってればいいというものではなくて、それよりは誠をもって生きることが肝要というのだろう。
「心だに誠の道に叶ひなば祈らずとても神や守らん」
「神は正直の頭に舎(やど)る」
これは何度でも味わいたい、いい言葉だ。少し違うけど、「人事を尽くして天命を待つ」というのも、いい言葉だと思う。
こういう信仰観は、何よりもまず信仰が第一だという人からしたら異論はあるかもしれないが、自分にとっては心から納得できる考え方ではある。

〈了〉