辻村深月の小説を読んでいたら、おもしろい台詞を見つけた。

いいね、本読みなれてないと、そんなふうに一冊一冊、本にがっつりはまろうって気概が起きるんだ。俺、そういう新鮮味が薄れてきてるから、羨ましい。そういう時期に戻りたい
 (辻村深月『オーダーメイド殺人クラブ』〈集英社文庫〉集英社、2015年、p.199)

これは会話の流れとしては、難しい言葉は辞書を引きながら本を読んだという少女に対して、読書家の少年がもらした感想である。

自分は読書家というほどでもないけれども、こういう気分は分かるなあ。自分は以前は本を読む時はいつも、本文はもちろん、まえがき、あとがき、解説なども全部読んだもんだった。すきな作家の本は、集中的にガツガツして読んだ。高橋克彦の本で、すきな作家については全集で読むべきことを勧めていて、それを実践してた。

でも最近は、本を読むといっても、そういうガツガツした読み方は出来なくなってきている。全体をざっと眺めて終わりにしたり、必要なとこしか読まなかったり、おもしろくなければ中途で放り出すようになっている。大感動する本との出会いもなく、一冊の本にハマるとか、特定の作家にのめり込むとか、そういうことはなくなった。濫読でも精読でもなく、雑読、閑読という感じである…。

こうなると、読書欲旺盛だった頃が懐かしい。当時は読みたい本がたくさんあって、忙しくて大変だったけれども、今にして思えば、あれはすごく幸福な時期だったのかもしれない。

考えてみれば、これと同じことは、音楽や映画でも起きてる。以前だったら、聴く、観るとなれば、最後まで聴き、観るのが当たり前だった。でも今は、おもしろくなければ中途で止めるし、じれったくなれば早送りもする。

それにしても、どうしてこんな風になったのだろう。自分側の原因としては、年のせいとか色々思い当たる点はあるけれども、自分以外の外的原因を考えると、情報の氾濫があるかもしれない。

近頃は、以前よりも、本も、音楽も、映画も、巷にあふれていて、安く利用できるようになっている。高いお金を出して手に入れたものであれば丁寧に扱い、骨までしゃぶるが、巷にあふれていて無料または低料金で手に入れられるものはそれ相応の扱いになるというパターンである。

こうしてみると、知識欲は情報を自由に利用し難い時には高まり、情報を自由に利用できるようになったら減退するということもあるのかなあ…。これはなんか、ぜいたくな話ではあるけれども、少なくとも自分に関してはどうもそんな感じになってそうだ。向学心に乏しいことを環境のせいにするなと叱られそうではあるけれども、そういう一面があることは確かであるように思える。 〈了〉