『近思録』を読んでいたら、また、いい言葉を見つけた。
聖人の道は、大通りのように平坦です(すなわち、だれもが通れる道です)。(『近思録 -朱子学の素敵な入門書-』編集朱熹 呂祖謙、訳解福田晃一、明窓出版、平成10年、p.107)
これは第二巻の十五にある言葉だけど、本当にいいなあと思う。
修行というと、すごく厳しいものであって、ごく一部の人しかできないことのように思えるけれども、
聖人への道は、平坦で広々としており、だれでも歩き続ける限りはゴールできるものだというのは、勇気づけられる思いがする。
考えてみれば、釈尊の考え方も、これと似ているかもしれない。たとえば、涅槃経にはこうある。
アーナンダよ。修行僧たちはわたくしに何を期待するのであるか? わたくしは内外の隔てなしに(ことごとく)理法を説いた。完き人の教えには、何ものかを弟子に隠すような教師の握拳は、存在しない。(『ブッダ最後の旅―大パリニッバーナ経―』中村元訳、岩波書店〈岩波文庫〉、2007年、p.62)
釈尊は、握り拳の中に、秘密を隠すことなく、教団の内と外とを区別することなしに、法を説いたという。
これはつまり、釈尊の説いた教えは、教団の内外を問わず、誰もが学び、歩めるものだったということではあるまいか。
少なくとも、世に知られない秘密の道(秘儀)などは説いてはいなかったようである。
少なくとも、世に知られない秘密の道(秘儀)などは説いてはいなかったようである。
こうしてみると、真理というものは、一部の選ばれた人にしか知り得ないものではなくて、誰もが知り、実践できるものなのかなあと思う。
たぶん、それでこそ真理と言えるのだろう。 〈了〉
孫が祖父母を殺す殺人事件まで起きている。
サンガが地獄と化し、サンガにユートピアを
築けないKKが、どうして、この地球を
ユートピアにすることが出来ようか!?
tam
がしました