とある本によると
人が反省し、改心することによって
神のゆるしが得られるという
神のゆるしが得られるという
また、別の本によると
人が反省し、改心する前に
すでに神はゆるしているのだという
すでに神はゆるしているのだという
一体、どっちが本当なのだろう
改心してこそ、ゆるされるのか?
改心する前に、ゆるされているのか?
改心する前に、ゆるされているのか?
つらつらと考えてみるに
もし神は絶対だとすれば、その判断が、人の言動によって、左右されることはなさそうだ
人が改心しても、しなくても、神の判断はそれより先に決まっていて変わることはない
人が改心しても、しなくても、神の判断はそれより先に決まっていて変わることはない
さらに神は愛であるとすれば
ゆるさないよりも、ゆるすという判断をしそうである
こう考えると
どうも、人の改心よりも、神のゆるしが先にありそうだ
神は、
罪の自覚もせず、改心もせず、のほほんとしている人のことをゆるし、優しく見守ってくれているのだとすれば
これは途方もないほど大きく、偉大な存在だなあと思う。
これは途方もないほど大きく、偉大な存在だなあと思う。
それでも、「批判する者に魔が入っている」のでしょうか?
魔が入っているのは、魔に翻弄されているのは、
凶悪性魔バフォメットに翻弄されているのは、
その分身ブエルに玩具にされてるのは、
幸福の科学であり、犬川そのものではないでしょうか!?
幸福の科学よ、最低最悪の邪教団よ、恥を知れ!!
tam
がしました