人が救われる条件は
宗教によって、いろいろあるようだけども
自分にとっては、どれも難しそうである

たとえば
自分には
十戒はもちろん
神を愛し、隣人を愛せというのも無理っぽい
自分が損しない限りは、隣人に親切にできるだろうけど
自分を犠牲にしてまでも、隣人に尽くすことはできそうもないので…

神を信じよというのも難しい
自分にはどんな時にも信仰を失わないなんてできそうもない

懺悔、告解とかで
自分の罪を正直に打ち明けるというのも無理である
そんなことは、恥ずかしくてできない

仏教の250戒も、無理である
というか、五戒さえも守れないのだから仕方がない

念仏も、心から唱えられるかと聞かれたら自信はない
だいち念仏で救われるということからして信じ切れないから話にならない

こうしてみると
自分が救われるには
「救うのに何の条件もつけない」
「無条件で救ってあげよう」
というのでないとダメのようだ
なんとも手前勝手な話ではあるが、そう結論せざるを得ない

でも
この間、本を読んでいたら
どういう者でも救ってくれる神様はいないこともないらしい
その本にはこうあった

本来がマルメラードフは、天国行きなど望めた義理ではなかったのだ。どこの世界に、アンチクリストの刻印を押された獣・悪魔を、天国に迎えるしきたりがあるだろうか。
ところがマルメラードフの「キリスト」は、知者、賢者の反対を押しきってまで、彼を天国に迎えようとされる。となれば、彼が思い描くキリストは、アンチクリスト、悪魔をまで赦される、無限に「心の大きい方」ということにならざるをえない。ここであらためて強調しておくと、このようなキリスト観こそ、現世の苦しみにあえぎうめいていたロシアの民衆の救済願望そのものでもあった。小説に即して言えば、666の刻印をひそめたラスコーリニコフその人にさえ、キリストへの道は閉ざされていないということである。 
(江川卓『謎とき『罪と罰』』新潮社、1986年、p.94)

こうしてみると
無条件で救ってほしいというような考え方は
昔からあるものであって
そう珍しいことではないのかもしれない

悪魔でさえも赦し、天国に招いてくれる神様…
汚れた者でも、救ってくれる神様…

なんとも身勝手で、甘ったれた考えではあるが
そういう神様がいてくれたらいいなあと思う。