「ライ麦畑でつかまえて」の中で
ユダは地獄に堕ちてないという話があったなあ
と思って、見直してみたら、14節にあった

今でも覚えてるけど、僕はチャイルズに、ユダは自殺をした後で、地獄へ行ったと思うかって訊いたんだ。イエスを裏切ったりなんかしたあのユダさ。チャイルズは、もちろん、と言ったね。そこなんだな、僕が彼と意見の合わないのは。僕は、千ドル賭けてもいいけど、イエスは絶対にユダを地獄になんか送らない、と言った。今でも僕は、千ドル賭けるね。もし千ドルあったらば。あの使徒たちだったら、どの人だって、ユダを地獄に送ったろうと思う――しかも、さっさとさ――しかし、何でも賭けるけど、イエスは絶対にそんなことはしない。  
(『ライ麦畑でつかまえて(新装版)』サリンジャー著、野崎孝訳、白水社、1992年、p.142)

これを、はじめて読んだのは
もう大分、前のことだけど
すごく感動したのだった
たしかに、イエスだったらそうするかもしれない
いや、そうするにちがいない

もっともこれは
自分のイメージするイエスがそうだというだけであって
実際のイエスがどうなのかは分からないのだけれど…

そういえば
坂本竜馬の小説か、漫画で
坂本竜馬がいないところで
海援隊の連中が
仲間の一人の非を責め、切腹させた場面があった
しかも介錯しないで、そのまま放置して、長く苦しませていた
もし竜馬がその場にいたなら、そんなことはさせなかったが
竜馬がいなかったために、それを止められなかったというエピソードだった

ここで語られている関係性は
「ライ麦~」で語られている
イエス、ユダ、ユダ以外の使徒たちの関係と似てる

こう考えると
本当に恐ろしいのは
神の裁きではなく
狂信者や、無知な大衆による裁きなのかもしれない
「こんなやつは、地獄に堕ちて当然だ」という発想

おそらくは
魔女狩り
異端審問
異教徒の排斥
集団リンチ
などの背景にも、そういう発想があるのだろう
神の名によって
または正義の名のもとに
人を裁き、地獄送りにしようとする
これこそまさに、自分が何をしているかが分からない状態にちがいない

どうか
神が本当におられるならば
狂信者や、集団心理とは
まったく無縁の存在でありますように…と祈りたい。