三浦綾子の本を読んでいたら
悪口は言わないクリスチャンのことが書いてあった
その人は、悪口は言わない理由について、次のように述べたという

『ぼくね、昔よく人の悪口を言ったり、人の非を鳴らして、正義の士を気取っていたんですよ。だけど洗礼の日を期して、今後死ぬまで人の悪口は申しませんと、神様の前で約束したんです。約束の相手は神様です。約束を破るわけには行かないじゃないですか』 
(『明日をうたう』〈角川文庫〉三浦綾子、角川書店、平成14年、p.70)

これはいろいろと反省させられる言葉だなあと思う
なんだか悪口をいう自分が
恥ずかしいような
うしろめたいような
穴があったら入りたい心持ちにさせられる

間違ったことに対しては
批判するのは当然だろうし
勢い余って批判が悪口になってしまったとしても
しょうがない部分はあるのだろうけど
上の言葉の前にはそういう理屈は空しくなってしまう

人を裁くことをよしとするために
さまざまな理屈はあり得る
でもそういう理屈はすべて
「人を裁いてはいけない」という一言で
空しくなってしまうのだから不思議である

こういうのが真理の力というのだろうか

でもそれが分かっているはずなのに
自分は批判、悪口を止められず
批判、悪口を正当化する理屈も積み上げ続けるのだから情けない
こういうのが、カルマであり、原罪なのかなあと思う。