小野不由美の『残穢』を読んでいたら、次の一文を見つけた
恣意的に理屈を用いれば、結論はいかようにもなる。(『残穢』〈新潮文庫〉小野不由美、新潮社、平成27年、p.153)
これはその通りだなあと思う
怪奇現象は
理屈の使い方によって
霊によるものだという方向に持ってゆくこともできるし
霊によるものではないという方向に持ってゆくこともできる
理屈の使い方によって
霊によるものだという方向に持ってゆくこともできるし
霊によるものではないという方向に持ってゆくこともできる
つまり
怪奇現象については
肯定する理屈もつくれるし
否定する理屈もつくれるから
どちらを選ぶかは、その人のお好み次第ということ
肯定する理屈もつくれるし
否定する理屈もつくれるから
どちらを選ぶかは、その人のお好み次第ということ
作中では
怪奇現象の受け止め方について
その人が、いかなる世界観を持っているかによって決まる
というような表現が散見されるけど
これも本当にその通りだ
その人が、いかなる世界観を持っているかによって決まる
というような表現が散見されるけど
これも本当にその通りだ
結局のところ
怪奇現象については
肯定するにしても
否定するにしても
人にできるのは、自分の世界観を表明することくらいで
その真偽について語ることはできないということなんだろう
肯定するにしても
否定するにしても
人にできるのは、自分の世界観を表明することくらいで
その真偽について語ることはできないということなんだろう
ただそうはいっても
現状は
肯定する理屈よりも
否定する理屈の方が優勢ではあるかもしれないけど…。
肯定する理屈よりも
否定する理屈の方が優勢ではあるかもしれないけど…。