自分は、以前は
心の修行というものを信じていた

仁、義、礼、智、信など
徳目を実践することで
人格を磨き、向上させることができるとか

正見、正思、正語…など
八正道を実践することで
悟りを得て、人格完成者になることができるとか…

でも近頃は
自分にはそういうのは無理っぽい
と思うようになってきている

なぜそう思うか
簡単な例を挙げれば
たとえば
悪口を言ってはいけないというけれど
自分には、そんなシンプルな戒めさえ
守るのは難しいのである

悪口は
どんなに注意していても
つい口から出てしまうし
仮に口に出さなくても
心の中では垂れ流し状態である
恥ずかしいことだが
これは何十年経っても進歩がない

こうしてみると
徳目だとか、戒めだとかは
自分にとっては、それを守るためにあるというよりも
それを守れない自分の未熟さを知るためにあるようだ

ずいぶん前に
クリスチャン作家のエッセイで
聖書の教えのうち、どれか一つを
徹底的に実践してみることをすすめているのを読んだ覚えがあるが
最近になってようやく、その意味が分かってきた気がする…。