三浦綾子のエッセイを読んでいたら、次の一文を見つけた。
まことに私たちは神の憐みによって神を信じ得ているのである。(『小さな一歩から』〈講談社文庫〉三浦綾子著、講談社、2000年、p.205)
これは、「ただ神の憐みによって」という表題の文章である。聖書を読んですぐに信じ、洗礼を受け、その後も長く信仰を続けている人もいれば、そうでない人もいるということを述べた後で、こういう結論に至っているようである。
自分はキリスト教についてはよく知らないけれども、他の宗教を信じ、その後、棄教した経験があるので、この辺りのことは分かる気がする。当時は、信じようとは思わないのに信じないではいられなかったり、信じたいのに信じられなかったりしたのだった。
こういう経験からいっても、信仰というものは、本人以外の意思…神の意思こそが重要なんだろうなあとは思う。もちろん本人の意思も無関係ではなかろうけれども、最終的には神の意思によって決定されるのだろう。