*メモしよう
前の記事では、全体的な感想を書いたけれども、今回は気になった箇所について書いてみたいと思う。
(注意 信者さんからしたら不愉快な表現もあるかもしれないので注意してください)
(注意 信者さんからしたら不愉快な表現もあるかもしれないので注意してください)
*正義かどうかの判断基準
まえがきに、「ソクラテス」云々とあったので、プラトンの対話篇とか、ハーバード白熱教室みたいな内容を連想したのだが、のっけから驚かされた。
「地球的正義とは何か」について答えるとするならば、「世界の方々から見て、地球的正義に見えるかどうか」ということが一つの判断基準になります。(『正義の法』大川隆法著、幸福の科学出版、2016年、p.20)
正義かどうかは、世界の人々がどう見るかが判断基準になり得るという。これは正義は多数決で決まるということだろうか。
考えてみれば、大川隆法は、数にこだわるところがある。信者が1100万人以上いるとか、講演数、著作数などを誇ったりする。前には、イエスはもっと大勢の弟子がいたら殺されずに済んだというような発言もしていた。
とすると、正義かどうかは、多数が賛成するかどうかで決まるというのは、本気で言っているのかもしれない。
とすると、正義かどうかは、多数が賛成するかどうかで決まるというのは、本気で言っているのかもしれない。
*正義かどうかは数で決まる?
上と同じような発想は、他にもある。
世界中にはさまざまな宗教があり、それらを信じている人口のほうが、信じていない人よりも圧倒的に多いのです。(同上、p.93)
私としては、基本的に、「攻める側の掲げた大義名分が、世界を納得させるようなものでなければ、自国の領土や国民、家族等を護るために戦っている者は、悪の側に立っているとは言えないのではないか」と考えています。(同上、p.291)
前者は、宗教を信じない人よりも、信じる人の方が多いから、信じるのが正しいというような論法である。
後者は、その戦争が正しいかどうかは、その大義名分に納得する人が多いかどうかが重要だという。
どうやら、大川隆法にとっては、多数派かどうかが判断基準であるらしい。やはり、信者数、著作数、講演数などにこだわるのは、相応の理由があったということか…。
どうやら、大川隆法にとっては、多数派かどうかが判断基準であるらしい。やはり、信者数、著作数、講演数などにこだわるのは、相応の理由があったということか…。
*正義かどうかは数では決まらない?
ただ別のところでは、こうも言っている。
地上の人間の数によって、つまり、彼らが合意し、応援し、賛成した数によって、真理が決まるわけではありません。真理は、天上界において決まっています。(同上、p.47)
ここでは、正義は、支持者の数では決まらないとしている。
とすると、正義かどうかは、多くから支持されるかどうかで決まるというのは、まちがいだということになりそうだ。多くから支持されるかどうかは、大まかな目安にはなっても、最終結論にはなりえないと。
たしかに地球的正義についての発言を見直してみると、世界の方々から支持されるかどうかは「一つの判断基準」としている。これは多数派かどうかは一つの目安にすぎないということだろう。それだけで正義が確定するとはいっていない。
たしかに地球的正義についての発言を見直してみると、世界の方々から支持されるかどうかは「一つの判断基準」としている。これは多数派かどうかは一つの目安にすぎないということだろう。それだけで正義が確定するとはいっていない。
*正義かどうかを判断するのは、小学校レベル?
ここでも、多数決のことは批判的に語られている。
小学校あたりで簡単に習う民主主義というのは、「多数決」、すなわち、「多数の人が支持するものが正しい」というものでしょう。(同上、p.266)
でも、多数決によって正義を判断するのは小学校レベルとするならば、先に地球的正義の判断において、多数に支持されるかどうかを一つの判断基準としたのも小学校レベルの方法だということになりそうだ。
地球的正義かどうかは、小学校レベルの方法によって、おおよその目安がつけられるというのは、なんか変な感じがしないでもない。
ついでにもう一つ疑問を述べておくと、自分が通っていた小学校では、多数決は、何を選ぶかという判断基準にはなっても、正邪善悪の判断基準にはなっていなかったように思う。多数決は、一つの選択ではあっても、善悪の判断も兼ねているわけじゃない。
大川隆法が、数にこだわるのは、多数決による判断は、善悪の判断も兼ねているという思い込みによるのかもしれない。
大川隆法が、数にこだわるのは、多数決による判断は、善悪の判断も兼ねているという思い込みによるのかもしれない。
*どっちだろう?
数に関わることでは、こちらの発言も面白い。
この地上では、ときに、十億人を超える人間が、一人の悪魔に支配されることすらあります。(同上、p.47)
ただ、悪魔の教えが、十数億人にまで広がることはないと考えてよいと思います。(同上、p.285)
大川隆法は、十億人を超える人々が、悪魔に支配されることもあると言いたいのだろうか。そんなことはないと言いたいのだろうか。どっちなんだろう。
もし、多数が悪魔に支配されることはないとするならば、多数決によって正義を判断することは一定の正当性を持つ。
でも、もし多数が悪魔に支配されることもあるとするならば、多数決によって正義を判断することはできないことになる。悪魔が多数派になることもあるのであれば、当然そうなる。
このように悪魔が多数派になりえるかどうかは、正義を判断するうえで、重要な問題である。でも大川隆法の発言は、どうもはっきりしない。これではどうしようもない。
よく指摘されることではあるけれども、大川隆法は、黒と言ったかと思うと、白と言い出したりなど、言うことがコロコロ変わるから困る。
でも、もし多数が悪魔に支配されることもあるとするならば、多数決によって正義を判断することはできないことになる。悪魔が多数派になることもあるのであれば、当然そうなる。
このように悪魔が多数派になりえるかどうかは、正義を判断するうえで、重要な問題である。でも大川隆法の発言は、どうもはっきりしない。これではどうしようもない。
よく指摘されることではあるけれども、大川隆法は、黒と言ったかと思うと、白と言い出したりなど、言うことがコロコロ変わるから困る。
〈つづく〉