*つづき
この記事は、前の記事の続きです。


*宗教の教えは、古くなる?
ここでは、主教の教えにも耐用年数があると言いたいらしい。

過去の宗教も、二千年、二千五百年、あるいは三千年以上もたつと、はっきり言って、現代ではさすがに時代的に合わなくなっている内容がそうとうあるので、これにも見直しをかけようとしています。
(『正義の法』大川隆法著、幸福の科学出版、2016年、p.64)

これは幸福の科学らしい宗教観である。それは次のような内容である。「高級霊が人として地上に生まれてきて、宗教をつくって人々を導く。しかし長い年月が経ち、その宗教が形骸化したり、社会情勢と合わなくなってくると、再び高級霊が人として生まれてきて、その社会情勢に合った新しい宗教をつくって人々を導く…」
こういうのは、幸福の科学の信者からしたら当然のことかもしれないけれども、他宗教の信者からしたら、たまったもんじゃないだろうなあとは思う。「あなた方が信じている既成宗教は耐用年数が切れています。だから今、新しく幸福の科学という宗教ができました。今後はこちらに合わせてください」というようなことを言われたら、誰だって腹が立つだろう。大川隆法も自分の発言が、他宗教を貶めることになるのを承知しているから、「はっきり言って」という断りを入れているのだろう。
幸福の科学の中では、大川隆法は主エルカンターレであって、既成宗教の本質的部分と、枝葉の部分を判断し、後者について変更する権限を有するということになるのだろうけれども、これはあくまで幸福の科学の教義にすぎないのであって、他の宗教が受け入れることはないだろうなあとは思う。


*信仰の押しつけ
大川隆法は、幸福の科学大学の不認可問題と、映画『神は死んだのか』で描かれている問題は、似たようなものだと考えているようだ。

それは、幸福の科学大学の認可に関することでした。まさにこの映画にあったように、「学問を修め、学位を取って卒業し、ロー・スクールに進んだり、就職コースに乗ったりするためには、信仰を引っ込めなければならない」とか、「『神は死んだ』と宣言し、署名しなければならない」というのと似たようなケースを経験したわけです。
(同上、p.33)

自分は、この映画は見ていないし、大学の不認可問題は外野から見ていただけではあるが、この二つの問題はどちらも宗教が絡んではいても、その中身は大分違うように思える。
まず映画の方は、そのあらすじからすると、信仰に関わる問題のようだ。教授が学生に信仰を捨てろと強要することが問題発生の原因になっている。
一方、幸福の科学大学の問題は、信仰問題というよりは、学問の問題だったのではあるまいか。霊言を信じるか信じないかというよりも、霊言は学問と言えるかどうかが争点になっていたのではなかろうか。
こう考えると、一方は信仰の問題であり、もう一方は学問の問題である。両者は大分異なっているし、似ているとする見解は、やや的外れであると思う。

とはいえ、両者はともに、信仰問題だという見方もできなくもないかもしれない。でもそれだと、教団側に不利になりそうだ。
不認可問題の顛末を調べると、教団側は審査する側に霊言本を送り付けるなどして、審査側はこれを圧力と受け取ったらしい。映画の教授は、学生に無神論を強要したというが、教団は審査側に霊言を信じ、認可をするように圧力を加えたともいえるのである。
この点、信仰の強要という問題については、映画の教授と、教団は似たところはあるかもしれない。


*霊言は、創作にすぎないのか
霊言については、次のような発言があった。

これを「フィクションでできる」と言うのであれば、どうぞやってみてください。おそらく、できないでしょう。
(同上、p.69)

これも論点がズレてる。霊言の問題は、「創作かどうか」という真偽の問題であって、「できるかどうか」という能力の問題ではない。また仮に、「できるかどうか」が問題になったとしても、それより前に、「やるかやらないか」という倫理的問題もある。
一定の倫理観を持っている人であれば、たとえ霊言を創作する能力があったとしても、そんなことはやらないのが当たり前である。神の名を騙ったり、故人の名を利用するなんて、とんでもないことだ。
たとえば匿名掲示板の某コテハン氏は、一時期、創作霊言をしたものの、すぐに、神の名を使ってそんなことはできないとして中止していた。この某コテハン氏は、ずいぶん過激な発言をすることもあったが、そういう人であっても創作霊言には抵抗を感じたというのである。これが普通の感覚である。
もし霊言できるからやるというのであれば、そういう人は霊能力があるとかないとかいう以前に、倫理的に一般とは大分異なっているように思う。


*仏陀は、二度と生まれ変わらない?
ここでは、仏陀が生まれ変わらないことで得をするのは悪魔だとほのめかしている。

「悟ったら、もう二度と、絶対にこの世には帰ってこられない」ということであれば、誰が得をするのでしょうか。
(同上、p.77)

大川隆法の意見は、要約すれば、次のようなものらしい。「仏陀が説法することで困るのは悪魔である。仏陀は生まれ変わらないというのは悪魔の影響を受けている人のいうことだ。仏陀は、法を説くために、この世に生まれ変わってくるのだ」
私見ながら、この辺りは悪魔がどうこうというよりも、生を苦しみとみるか、幸福とみるかの違いによると思う。
釈尊は、生老病死など、生も含めて一切を苦とみたので、生を受けない解脱を理想としたのだろう。だから生(苦)を受けないで得するのは、本人だということになる。
一方、大川隆法は、人は霊として永遠の命を持ち、輪廻を続けることを幸福としている。だから生から離れることでなく、生を受け続けることを欲する。だから、生(幸福)を受けないで得するのは、自分以外の誰かだということになる。
要するに上の言葉は、大川隆法は、一切は苦であることを知るという仏教の入口にすら、たどり着けてないことを端的に示しているということである。


*思い通りにならない
これは確かにその通りではある。

この世の中には、不浄や苦しみがたくさんあるかもしれません。しかし、それらをただただ捨てればよいのではなく、この不浄の世の中をできるだけ浄化していくことが大事な仕事なのです。
(同上、p.80)

「世の中には、苦しみや悲しみもたくさんあるけど、そればかりではない。世の中から苦しみや悲しみを無くして、少しでもよくして行きたい」というのは尊いことではある。
でも仏教では、「苦しみがたくさんあるかも」ではなく、一切は苦であり、思い通りにならないと喝破しているのである。その意味で、上の意見は、人情としては理解できるけれども、仏教の本道とはちょっと違ってるように思える。


*生き物にはすべて目的がある?
こういう考え方は、自分に価値を認めることであるし、いいなあと思う。

この世で生きているものを見るかぎり、すべて、目的性があって存在しています。
(同上、p.84)

ただこれだと、寄生バチ、カッコウなどはどうなんだろうと思えてくる。自然界には、残酷非情な生態を持つ生物は少なくないのである。
こういう現実からすると、すべての生物は神が設計し、目的を定めたというよりは、それぞれの生物たちは、道徳も何も関係なしに、生き残りをかけて生存競争を繰り広げてきたという方が説得力があるような気がしないでもない。


*生物は、高熱の星でも生きられる?
大川隆法は、生物は、ものすごい高温の下では生きられないと考えているようだ。

原始の地球が灼熱であったことはだいたい分かっており、ものすごい高温でドロドロに燃えていて、火山が噴火し、溶岩でいっぱいの高熱の星だったことは間違いありません。そのようなところで、生き物の痕跡が残る活動ができるはずはないのです。
(同上、p.85)

でもたしか、「地球大進化 46億年・人類への旅」という番組では、地球はかつて海水がすべて蒸発してしまうほどの火炎地獄のような環境にあったが、それでも生物は生き残ったとしていたように思う。また現在でも、何百度とかの高温の場所で生きている生物もいるとか…。
ついでにいうと、全球凍結というように、地球の表面すべてが氷に閉ざされるような環境でも、生物は生きていたともいう。
唯物論的な見方でさえ、このように考えられるのであれば、どんな奇跡でも起こせる偉大なる神を信じる立場から、「~できるはずはない」というように一切の可能性を否定する発言をするのはおかしいと思う。


〈つづく〉