*つづき
この記事は、前の記事の続きです。


*自然葬の理由
自然葬については、次のような発言があった。

例えば、「死んだら何もかもなくなるから」ということで、野山や海面に遺灰を撒いたりして終わりにする、自然葬のようなものも出てきています。たしかに、これはお墓が要らないので、安上がりではあるでしょう。
(『正義の法』大川隆法著、幸福の科学出版、2016年、p.88)

大川隆法は、自然葬が支持される理由に、唯物論とお金の問題があると考えているらしい。この人はたしか「常勝思考」あたりだったろうか。悩みの大部分はお金があれば解決できるものだというような話をしていたかと思う。こういう発想をする人だから、すぐお金のことを言うのかなあ。
でも自分が思うに、自然葬が支持される理由には、墓を建てたとしてもそれを守る人がいないとか、仮にいたとしても墓の管理などで負担をかけたくないという気持ちがあるように思う。また墓の中のような薄暗い場所に、遺灰を入れられたくないという感覚もあるだろう。
もちろん費用のこともあるのだろうけれども、お墓が要らないと安上がりでよいというような安直な発想ばかりではなかろうと思う。


*先祖供養と波長同通
ここでは、先祖供養について述べられている。

普通の人は霊能者ではないので、「思ったらすぐに死者に通じる」ということは、あまりありません。
(同上、p.89)

先祖供養は、生者の思いと、死者の思い、かつ墓地のような決まった場所があってこそ成立するものだという。
これは、「そういうものかな」と思わないでもないけれども、もしこれが本当なら波長同通の法則はどうなってしまうのだろうか。波長同通の法則は、思ったらすぐ死者とつながるということではなかったろうか。
この辺りについては、細かい議論もあるだろうけれども、「思ったらすぐに死者に通じる」ということが基本なのか、それとも、そういうことは「あまりない」のか、一体どっちが本当なのだろうと思う。


*大臣たちの守護霊から相談を受けた?
外国において人質事件が起きた時には、大川隆法は、大臣たちの守護霊から相談を受けたそうである。

本人から電話がかかってきたわけではないのですが、本人の守護霊が、悩乱したかたちで私のところへ相談に来て、「どうしたらよいのですか」と訊いてきたのです。
(同上、p.117)

政治家、官僚なども、幸福の科学の教えを学んでいるという話はよく聞くけれども、ひょっとしたら、それは政治家本人、官僚本人ではなく、その守護霊たちのことをいっているのだろうか。
これとはちょっと違う話ではあるけれども、「エクソシストの真実」というような本だったかなあ。「中村元は、大川隆法を仏陀と認めた、あの世に還ってから」というような文章を読んで驚いた覚えがある。
幸福の科学では、「Aはこうした」という場合、文字通りの意味のこともあれば、「A(の霊)がこうした」という場合もあるから、ややこしい。


*疑いについて
本書には共感できない所は多いけれども、この部分は一理あるし、共感できる。

疑いには、ある程度、
真理を発見する手段として存在している面もあるのですが、
すべてを疑っていたら、基本的に人間関係は成り立ちません。
(同上、p.105)

疑問を追及することで、真理に到達することはあるだろう。
でも何でもかんでも疑ってばかりいたら、人間関係はぎくしゃくしてしまうというのは、その通りではある。
疑問は真理探究に役立つ面もあるが、それだからといって疑心暗鬼というのは困りものではある。


*唯物論的な研究
この部分も、共感できそうだ。

例えば、新幹線やリニアモーターカー等にしても、唯物論的な研究がなければ進まないというのはそのとおりであり、そうしたものを否定するものではありません。
しかし、そういうものを認めることが、霊的なものや、あの世、神様・仏様を否定する方向に行くような単純思考で、「白か黒か」「一か〇か」ということになっていくのであれば、これは明らかに間違っていると言わざるをえません。
(同上、p.179)

科学技術を進歩させるには、唯物論的な研究は大事だ。ここは同感である。
ただ後段については、やや疑問は残る。
思うに、唯物論的な考え方から行くと、神の存在は否定されるだろうけれども、だからといって必ずしも信仰までも否定するとは限らないのではなかろうか。現実存在としての神が否定されたところで、信仰上の神はそれとは別個に存在しうるのである。
唯物論者や無神論者だからと言って、個人の心にある信仰上の神までも闇雲に否定するとは限らないし、宗教信者だからといって、信仰上の神だけでなく、現実存在としての神も信じているとは必ずしも言えないだろうし、この辺りのことはそう簡単には断言できないことである。唯物論者は宗教を認めないとか、宗教信者は神を信じているとか、そういう短絡的で大雑把すぎる考え方はよくないと思う。


*一億人移民
幸福実現党では、当初、一億人移民を唱えていたけれども、本書ではバツ判定されているようだ。

最貧国から日本に、日本の人口と同じぐらいの一億人の移民を受け入れたらどうなるでしょうか。そうなると、日本では大変なことが起きるのは間違いありません。
(同上、p.213)

幸福実現党が掲げていた一億人移民は、最貧国からのものではなかったとは思うが、一億人規模の移民は、最貧国からだろうが、そうではなかろうが、やっかいな問題を引き起こす原因になりかねない。これについては避けた方が賢明ではあると思う。


*エルカンターレの無謬性
これは随分と率直な発言だなあと思う。

私も、この世においては完全ではないので、あるいは、さまざまな考え違いや思い違い、配慮しなかった部分等がないとは言えません。
(同上、p.275)

これは謙遜かもしれないが、重要な発言だ。
まず大川隆法は、自分は仏陀であり、創造主であり、主エルカンターレであるとしている。信者に100パーセントの信仰を求めてもいる。
これはつまり、自分は完全であると言っているようなものである。完全であるから、仏陀であり、主であると宣言できるのである。また自分のすべてを信じよといえるのである。
でも上の部分では、それとは逆に、自らの完全性を否定して、自分も間違いを犯すこともあるとしている。いわば人間宣言みたいなものである。その意味で、上の部分はすごい発言だ。
また上の部分は、あえて謙遜して見せただけで事実ではないとするならば、仏陀や主であっても、事実でないことを言う、嘘をつくこともあるということで、これはこれですごい発言ということになる。
この辺りのことについては、興味を感じない人もいるだろうけれども、大川隆法は完全であるかどうかは、大川隆法は主であるかどうかに関わる大問題であるのは確かではある。


*最後に
本書を読みつつ、何度か、「これは前に読んだことがあるかも…」という気がすることがあった。最近は、忘れっぽくなっているせいか、時々、こういうことがある。
でも本書は前に読んだことがあり、今回は再読だったとしても、そのお陰で色々と考える切っ掛けにはなったし、別にいいかなとは思う。
読書というのは、新たな知識を得るという利点もあるけれども、自分を知るという利点もある。たとえば、サヨク系の本を読んで、腹を立てることで、自分は保守的であることを実感するとか。
この点、自分にとって、大川隆法の本はとても有意義なものだ。自分の宗教観と、大川隆法のそれとは正反対のようで、氏の本を読むたびに、自分の信仰がいかなるものであるかがハッキリした形をとって浮き上がってくる。氏には申し訳ない面もあるのだが、自分の宗教観を明確化するためにも、また機会を作って氏の本を読んでみたいものである。


〈了〉