好き嫌いで裁くことについて
あれこれ考えながら
本を読んでいたら
次の文章を見つけた

人には必ず好き嫌いがあるものだ。こればかりは多分に生理的なもので、修養したからといって克服できるものではない、と私は思うようになった。
(『目に見えないけれど大切なもの』〈PHP文庫〉渡辺和子著、PHP研究所、2015年、p.148)

著者の意見では
好き嫌いは、誰にでもあり、生理的なものでもあるから
本人の努力で変えるのは難しいらしい

これは分かるなあと思う
自分は、どちらかといえば
好悪の感情は、さほど強くはないつもりだけど
それでも、好ましく感じる人もいれば、苦手に思う人もいる
そしてこういう気持ちは、なかなか変えられない

一応、理屈としては
自分は相手のことが嫌いであっても
その人のことを大事に思っている人はいる
神様はその人のことをも愛している
その人にも長所はあるのだから、そこを見るように努めよう
などと考えてはみる

でもそういうことは、理屈では分かっていても
心はついて行かないのだからどうにもならない
なので
最終的には、誰が悪いわけでもない
相性が悪いんだろうということで済ませてる

また著者は
自分には好悪があることを素直に認めることと
その上で、なおも、愛する努力すべきことを説いている

好き嫌いを無理に直そうとしたりせず、自分に好き嫌いがあることを素直に認めることは大切なことだと思う。その上で、「愛する」努力を怠らなければいいのだ。
(同上、p.148)

ここも、その通りだなあと思う
ただ自分は
自分に好き嫌いがあることは認められるけれども
その上で愛する努力をするのは難しい

「自分の判断は、自分がそう思い、考えているだけだ
公正中立で、正義の裁きというわけではない
だから、それに対して反対意見があるのは当たり前である」
ということは、了解している

でも
その上で
嫌いな人を愛する努力をするのは難しい

著者は
「愛さねばならぬ」ではなく
「愛する努力」を求めてるだけで
大分、ハードルを下げてくれてる

でも
自分は、相性が悪いから仕方ないということで
愛する努力はさしてしていない
そういう努力をする気持ちにさえなれないのである
どうもこの点では、自分はまだまだ未熟のようだ
もうちょっと頑張らなくちゃいけないかなあ…。