皇室に関する本を読んでいたら、信仰について書かれていた。
これは一般の信仰観としても正論に思える。

根本的なことを問われて、その重さを知り、うまく答えられなくて迷うのはよいことなのである。私はそう思っている。「あなたは信仰をお持ちですか」と問われて、なんの迷いもなく堂々と自己の信仰を披露できる人はかえって怪しい。信仰と信念とは別である。信仰はためらいがちにしか語れないものである。 
(『皇太子さまへの御忠言』西尾幹二著、ワック株式会社、2008年、p.44)

この文章を読むと、
なんだか、あるクリスチャンとの対話を思い出す。

自分はちょっと無作法なところがあって、
あるクリスチャンに、
「洗礼を受けたということは殉教も覚悟しているということですか」
と訊いてしまったことがあった。

でも、その人は、こちらの失礼をとがめることもなく、
「本来はそうあるべきだろうけれども、うーん、どうだろう…」
と考え込んでしまったのだった。

そして自分は、どういうわけか、
その様子を見て、この人は本気で信じているんだなあと感動し、
自分の無作法を申し訳なく思ったのだった。

当時は、
なぜ自分が、そんな気分になったのか分からなかったが、
上の文章からすると、
クリスチャンのためらいに、誠意と本気を感じたためかもしれない。

信仰というと
確信を得て、ためらうことがないというイメージがあるけれども
それは見当違いであって
信仰というものは、ためらいや、迷いがあってこそのものであって、
もしそれが失われたら、それは信仰とはちょっと違うのかもしれないなあと思う。

たとえば、
「自分は本当に正しいのだろうか」「自分は本当に信じてるのだろうか」というのと、
「自分は正義だ」「自分は本気で信じてる。命を懸けてもいい」というのとでは、
一方には、誠意、謙虚、内省があり、
もう一方は、厚顔無恥、高慢、無反省があるだろうし、
どちらが信仰であり、どちらが信仰とはいえないかは、明白だろうと思うのである。