本を読んでいたら、
仏教の教えの本質について、こうあった。
仏教の教えもいろいろあって一筋縄ではいかないが、来世を期待することが教えの基本では決してないと私は思う。むしろ来世を期待しない心を鍛えることに仏教の教えの本質がある。(『皇太子さまへの御忠言』西尾幹二著、ワック株式会社、2008年、p.57)
多分、これが本当なんだろうなあと思う。
仏教は執着を去ることを目指すのだろうし、
それならば来世にも執着しないというのは当然である。
それならば来世にも執着しないというのは当然である。
ちなみに、
原始仏典(中村元訳)には、次のような言葉がある。
現世を望まず、来世も望まず、欲求もなく、とらわれのない人、――かれをわたしは〈バラモン〉と呼ぶ。(スッタニパータ 634)かれはここで、両極端に対し、種々の生存に対し、この世についても、来世についても、願うことがない。(同上 801)悪魔は善業の功徳を求める人にこそ語るがよい。(同上 431)古い(業)はすでに尽き、新しい(業)はもはや生じない。その心は未来の生存に執着することなく、種子をほろぼし、それが成長することを欲しないそれらの賢者は、灯火のように滅びる。(同上 235)
これらの言葉を読むと、
現世にも、来世にも、未来の生存にも、願うことなく、こだわることなく、
なにものにも執着しないことを目指しているのは明らかである。
なにものにも執着しないことを目指しているのは明らかである。
ことに、
「悪魔は善業の功徳を求める人にこそ語るがよい」という言葉は印象的だ。
仏陀は、悪魔の下心を読んだうえで、こう言ったらしいが、
この言葉からは、仏陀が、善業の功徳を求める人をどう考えていたのかがよくわかる。
仏陀は、悪魔の下心を読んだうえで、こう言ったらしいが、
この言葉からは、仏陀が、善業の功徳を求める人をどう考えていたのかがよくわかる。
仏陀のイメージは、人それぞれだろうし、
信仰は自由だから、
それぞれが、それぞれの仏陀像を信じてよいとは思う。
それぞれが、それぞれの仏陀像を信じてよいとは思う。
でも、
現実の仏陀が、
何を説いたかと言えば、
来世がどうこうというよりも、
そんなことにはこだわらない生き方を説いた
というのが本当のようではある。
何を説いたかと言えば、
来世がどうこうというよりも、
そんなことにはこだわらない生き方を説いた
というのが本当のようではある。
できれば自分も、
そんな風に、
来世がどうとか、功徳がどうとか、
そんなことには左右されないようになりたいものだなあと思う。
来世がどうとか、功徳がどうとか、
そんなことには左右されないようになりたいものだなあと思う。