奇跡や神秘現象は
宗教の正邪に関わりなく
起こりえるという
宗教の正邪に関わりなく
起こりえるという
だから
「病気が治った」
「事故を避けられた」
「神の声を聞いた」
「光の存在を見た」
「幽体離脱をした」
…などということをもって
その宗教は本物とはいえないという
「事故を避けられた」
「神の声を聞いた」
「光の存在を見た」
「幽体離脱をした」
…などということをもって
その宗教は本物とはいえないという
では
宗教的な感動の場合はどうなんだろうか?
たとえば
ある宗教と出会って感動した場合はどうだろう
「心から感動して、滂沱の涙を流した」
「これこそ本物だと直感した」
「自分が探し求めていたものは、これだと感じた」
「前世からの縁を感じた」
「心から感動して、滂沱の涙を流した」
「これこそ本物だと直感した」
「自分が探し求めていたものは、これだと感じた」
「前世からの縁を感じた」
こういう感動も、宗教の正邪に関わりないものなんだろうか
はじめに述べた考え方からすれば
これらの宗教的な感動も
神秘体験の一種であろうし
宗教の正邪に関わりない
ということになりそうではある
神秘体験の一種であろうし
宗教の正邪に関わりない
ということになりそうではある
つまり
宗教的な感動が、どんなに強く、強烈で、美しいものであっても
それは、その宗教が本物である証明にはならないということ
それは、その宗教が本物である証明にはならないということ
宗教的な感動をおぼえつつも
その宗教を本物と結論づけることはしないというのは
はなはだ困難なことではあるけれども
宗教の選択で間違わないためには
こういう態度は、どうしても必要なことなんだろうなあと思う。
はなはだ困難なことではあるけれども
宗教の選択で間違わないためには
こういう態度は、どうしても必要なことなんだろうなあと思う。