かつて自分は新興宗教である某教団の信者だった
当時は、第三者から「何か信じてることはあるの?」と聞かれることもあったが
そういう時は正直に、「某教団を信じてます」と答えてた
当時は、第三者から「何か信じてることはあるの?」と聞かれることもあったが
そういう時は正直に、「某教団を信じてます」と答えてた
本音では、信者だと告白するのは気が引けたが
教祖は信仰告白の大切さを説いていたし
自分自身も嘘は嫌だったので
正直に話すようにしていたのである
自分自身も嘘は嫌だったので
正直に話すようにしていたのである
でもインターネットを見るようになってみると
某教団の信者が、信仰を偽っているのを
見掛けることが少なくない
見掛けることが少なくない
誰に強要されているわけでもなかろうに
自らすすんで一般人を装い
さも一般人が某教団を讃美しているかのようにみせかけている
さも一般人が某教団を讃美しているかのようにみせかけている
どうしてそんなことをするのだろう
教団の素晴らしさを宣伝したいからか
教団が一般人から支持されていることを示したいからか
その理由はよく分からないが
それは信仰に正直であることより、優先されるべきことなんだろうか
というか
そもそも信仰に正直であることより、優先されるべきことはあるのかな
教団が一般人から支持されていることを示したいからか
その理由はよく分からないが
それは信仰に正直であることより、優先されるべきことなんだろうか
というか
そもそも信仰に正直であることより、優先されるべきことはあるのかな
一般人になりすましている信者には
この点についてよく考えてみてほしいと思う
*
ところで
あまり考えたくないことではあるけれど
こういう事例が、これほど繰り返されるということは
もしかしたらこれは信者個人の問題というよりも
某教団全体の問題なのだろうか
こういう事例が、これほど繰り返されるということは
もしかしたらこれは信者個人の問題というよりも
某教団全体の問題なのだろうか
たとえば某教団では
遠藤周作の「沈黙」の評価は低いようである
「沈黙」は
信仰を棄てるかどうか
信仰を棄てたと偽るかどうか、という話でもあり
信仰を偽ることに抵抗のない人には退屈だろうし
信仰を棄てたと偽るかどうか、という話でもあり
信仰を偽ることに抵抗のない人には退屈だろうし
某教団で
信仰を偽り、一般人を装う信者が、よく見られることと
「沈黙」の評価が低いことは、何らかの関係がありそうではある
「沈黙」の評価が低いことは、何らかの関係がありそうではある
この辺りのことを考えると
やっぱり自分の信仰観は、某教団とは合わないようであるし
自分が退会することになったのも、必然だったのかもしれない
自分が退会することになったのも、必然だったのかもしれない
以上
一般人になりすましていながら
何らの良心の呵責も感じないらしい信者を見ていて
心に浮かんだことを書いてみた次第です。
何らの良心の呵責も感じないらしい信者を見ていて
心に浮かんだことを書いてみた次第です。
下村博文さんの選挙区に「下村めい」なる成り済まし候補を立てて、当時は「しがらみのない候補者」などと、板橋区の市民まで騙して立候補しました。
その後、幸福実現党で下村めいが選挙に出たので、信者だったことが判明し、票も大きく減らしました。
もう、あの団体はそういう成り済ましや、相手を騙して己の利を稼ぐことを当然と思って常態化してるのではないですかね。
当時のFacebookに信者らしき書き込みを取っておいたのですが、次に貼りますね→
tam
がしました