前記事で
怒るべきときには怒ることも必要だと書いたが
では怒るべきときとはどんなときだろう?
つらつらと考えてみるに
一番に思いついたのは『銀河鉄道999』のエピソードである
鉄郎は、自分のためには泣かないが
人のためには泣くという話があったように思う
これは怒りについても言えるのではないだろうか
鉄郎は自分のためには怒らないが、人のためには怒るというように
たぶん、怒るべきときとは
自分のためでなく、人のためにそれが必要とされるときなんだろう
ちなみに宗教者の中には
信仰を侮辱されたら怒るのが当然だという人もいるが
神は人に守ってもらう必要も、救ってもらう必要もない存在である
とすれば
この怒りは他者(神)のためのものではなく
自分(の信仰)を守り、救済するためのものだろう
これを義憤と呼べるかどうかは微妙と思う。
でも怒りもまた大事な感情のひとつ。日本人は怒りを我慢しすぎて、言いたいことも ちゃんと言えなくなってしまった。
仏教的な制約のない欧米人たちは、実によく怒る。もう日常的に しょっちゅう怒りを発しているし、役所やいろいろな窓口では怒りを発しないと物事がうまく進まないので、彼らは何の気兼ねなく怒りを発散しています。
怒って言いたいことを言った後は、さっぱりして平静に戻る。というのも彼らの特徴。
日本人は仏教的な制約のうえ更に「和を以て尊しとなす、滅私奉公」という日本文化の中で、怒りを抑圧することを日常的に行っているので、怒りを溜め込んであるとき爆発して、とんでもない事件を起こしてしまったりする。
こんな本がありまして、
・中島義道『ウィーン愛憎』中公新書
・中島義道『怒る技術』PHP
中島氏は小出しに怒ることを提唱している。欧米人の様子については前者。日本人の個性を抑圧する文化については後者が詳しいです。気が向いたらでね。
tam
がしました