この前、読んだ本に、奇跡の受け止め方について書いてあった。
忘れないうちに、その概要をメモしておこうと思う。

まず奇跡の受け止め方の参考として、著者はヒュームの言葉をひいている。
孫引きになるけど、一応、貼っておくと、それはこういう言葉である。

証言の虚偽が証言の確立しようとしている事実以上に奇跡的であると言えるような種類のものでないならば、いかなる証言も奇跡を確立するのに十分ではない。
(『ドーキンス博士が教える「世界の秘密」』リチャード・ドーキンス著、大田直子訳、早川書房、2012年、p.254)

これでは全然、分からん。著者が解説するには、次のような意味とのことである。

ジョンがあなたに奇跡の物語を話したとして、「その話がうそ(または勘ちがい、または錯覚)である」という事態が、とうの奇跡よりありそうもない奇跡である場合にのみ、あなたはそれを信じるべきなのだ。
(同上、p.254)

これで大分、分かりやすくなった。でもまだピンとこない。
それは著者も承知しているのか、さらに一つの例を用いて説明してくれている。
それは、二人の少女(エルシーとフランシス)が撮影したとされた妖精写真である。



これについて、次の二つのうち、どちらの方がより有り得ないことかというのである。

1 妖精、つまり羽のある小さい人が本当にいて、花のあいだをひらひらと飛び回っていた。
2 エルシーとフランシスがそれをつくり上げて、にせの写真を撮影した。
(同上、p.255)

こたえは言うまでもない。
妖精が実際にいたというより、
年頃の少女たちが偽写真を撮って遊んだという方が、いかにもありそうなことである。
2は1以上の奇跡とは言えないので、1は本当ではないだろう。

また、著者はファティマの奇跡についても書いている。
以下の三つのうち、どれが一番もっともらしいかというのである。

1 太陽が実際に空を動き回り、おののく群衆に向かって落ちてきたあと、もとの位置にもどった(または、太陽が動いたかのように見えるように、地球が回転のパターンを変えた)。
2 太陽も地球も実際には動かず、7万人が同時に幻覚を見た。
3 まったく何も起こらず、すべてのできごとは誤報か、誇張か、単なるでっち上げだった。
(同上、p.257-258)

このこたえも言うまでもないようである。
流れとしては、前よりも後の方が奇跡から離れている。
著者の説くヒューム方式からすれば、
太陽が大空を動き回り踊っているようだったというのは、現実の奇跡ではなかったようだ。

この考え方からすると、
どうもこの世に奇跡なんてものは存在しないようにも思えてくるが、
逆に言えば、だからこそ、それは奇跡と言えるのかもしれぬ。

奇跡は有り得ないことだから奇跡なのだろうし、
単なる嘘や錯覚にすぎぬことを奇跡だと思い込んでしまわないようにするためにも、
以上の方法を上手に活用したいものである。

ちなみに、この方法は、霊能者の鑑定にも使えそうだ。

1 彼は、神や霊と話すことができて、この世とあの世を自在に行き来できる。
2 彼は、神や霊と話すことができて、この世とあの世を自在に行き来できると嘘をついている。またはそのように勘ちがいしている。

この場合、1より2の方が奇跡だとは言えなかろうし、結論はいうまでもないことである。
また、これは神を自称する教祖にも応用できそうだ。

1 彼は、神の生まれ変わりである。
2 彼は、自分は神の生まれ変わりだと嘘をついている。またはそのように勘ちがいしている。

この場合も、2は1以上の奇跡とは言えないので、1は本当ではなかろうということになる。
こうしていろいろと考えてみると、やはりこの判断方法は、嘘、いかさま、勘違いに惑わされないためには有用であるようだ。いつでも活用できるように覚えておきたいと思う。