本作は、哲学者ハンナ・アーレントの伝記映画である。
ただし伝記映画とはいっても、その生涯を辿るのではなく、ナチ高官のアイヒマンの裁判を傍聴し、そのレポートを発表した後の騒動について集中的に描かれている。
その中でも、アーレントが自らの考えを述べる部分は圧巻である。
たとえば、以下のくだりはすごい。

西洋には伝統的先入観がありました
人間が行う一番の悪は利己心から来るものであると
ところが今世紀に現れた悪は予想以上に根源的なものでした
今なら分かります
根源的な悪とは分かりやすい動機による悪とは違います
利己心による悪ではなく もっと違う現象によるものです
人間を無用の存在にしてしまうことです
強制収容所は被収容者に対して無用の存在であると思い込ませ殺害しました 
 (50:12~)

アーレント(バルバラ・スコヴァ)は、映画の序盤で、収容所にいるときに、はじめは救けが来ると希望を持っていたものの、時間が経つうちに疲れはてて気力がなくなっていったことを告白している。
「無用の存在」うんぬんとはそういうことなのだろうか。

根源的な悪は、利己心とは別にあるという発想は分かるような気はする。
自分は某宗教団体にいたことがあるが、そこでは利己心ではなくて、使命感、正義感などの利他的な思いによって、不道徳な行いを正当化する信者が少なくなかった。
次の台詞も急所を突いてる。

彼は思考不能だった
これは愚鈍とは違う
彼が20世紀最悪の犯罪者になったのは思考不能だったからだ 
 (1:07:55~)

彼は検察に反論しました
何度も繰り返しね
“自発的に行ったことは何もない”
“善悪を問わず自分の意思は介在しない”
“命令に従っただけなのだ”と
 (1:37:44~)

組織は、個々の判断よりも、命令に忠実であることを求めるものであろうし、独裁者がトップに立つ組織なら、その傾向はなお一層強まるだろう。
ことに神と同一視される教祖と、その信者によって構成される宗教団体なら、そうならないようにするのは、恐らくラクダを針の穴に通すより難しい。

アイヒマンの擁護などしてません
私はかれの平凡さと残虐行為を結びつけて考えましたが
理解を試みるのと許しは別です 
 (1:41:04~)

こういう誤解をする人がいることは分かる。
たとえば、A氏が、問題を抱えているB氏の内心を知り、理解するために、その話をよく聞く姿勢を見せただけで
「A氏は、B氏と親しくしている。二人は仲間だ」などと誤解され、中傷されることは、さほど珍しいことではない。

ソクラテスやプラトン以来 私たちは“思考”をこう考えます
自分自身との静かな対話だと
人間であることを拒否したアイヒマンは人間の大切な質を放棄しました
それは思考する能力です
その結果 モラルまで判断不能となりました
思考ができなくなると平凡な人間が残虐行為に走るのです
(1:41:32~)

考えることを放棄するならば、モラルを失い、残虐行為に走るというのは、決して過去の話ではなく、現在も変わらないのかもしれない。
独裁者、独裁政権、カルト教祖などの言説を、無批判に受け入れ、その意のままに動く輩は、今も少なくない。
こういう風に、組織の歯車や、指導者の操り人形になることは、誰もが間違いであると判断することだろうけれども、思考停止に陥っている者は、自分がそのような状態になっていることには、なかなか気づけないのだから悲惨である。

本作は、ハンナ・アーレントについてはよく知らない人でも楽しみ、感動できると思うし、特定の政治または宗教団体に属していた者には、さまざまな気付きを与えてくれるにちがいない。
公開時には、平日でも映画館は満員になったというが、それも当然と思える名作である。
ぜひ多くの人々に見てもらいたい作品だと思う。 〈了〉