*まえおき
『死霊館』と『死霊館 エンフィールド事件』を見たら、どちらもおもしろかったので、同シリーズの本作も見てみた。
全体的な感想としては、やはりスピンオフ作品のせいか、他とは色合いは異なるようである。
全体的な感想としては、やはりスピンオフ作品のせいか、他とは色合いは異なるようである。
*違う部分
『死霊館』『死霊館 エンフィールド事件』は、心霊研究家夫妻が主人公ということもあってか、スピリチュアリズム的な色彩が強かった。でも本作はそういう雰囲気は薄れ、キリスト教的な色合いが強くなってる。
たとえば、本作のストーリーは大雑把に言えば、「呪われた人形を入手したことをきっかけに、悪魔に狙われる若い夫婦の話」ということになるが、作品のテーマを念頭においてまとめれば、次のようになりそうである。
「教会での説教中に、指相撲をしてふざけていた夫婦は、怖ろしい体験をして悪魔の存在を知った後は、教会での説教をまじめに聞く、信仰熱心な夫婦となるのだった…云々」
また教会の説教では、次のイエスの言葉が語られ、重要な伏線となっている。
「この世で最も尊い愛とは、友のために命を投げ出すこと」
というわけで、本作はエンターテイメント性のゆたかなホラーであると同時に、宗教的なメッセージ性も感じさせる良作である。批評では前作『死霊館』に劣るという意見もあるようだが、自分からすれば完成度、安定感、深さではむしろ本作が上ではないかと思う。
たとえば、本作のストーリーは大雑把に言えば、「呪われた人形を入手したことをきっかけに、悪魔に狙われる若い夫婦の話」ということになるが、作品のテーマを念頭においてまとめれば、次のようになりそうである。
「教会での説教中に、指相撲をしてふざけていた夫婦は、怖ろしい体験をして悪魔の存在を知った後は、教会での説教をまじめに聞く、信仰熱心な夫婦となるのだった…云々」
また教会の説教では、次のイエスの言葉が語られ、重要な伏線となっている。
「この世で最も尊い愛とは、友のために命を投げ出すこと」
というわけで、本作はエンターテイメント性のゆたかなホラーであると同時に、宗教的なメッセージ性も感じさせる良作である。批評では前作『死霊館』に劣るという意見もあるようだが、自分からすれば完成度、安定感、深さではむしろ本作が上ではないかと思う。
次は、映画を見ていて気になった箇所について書いてみたい。
*エブリンのその後はどうなる? (以下は、ネタバレです)
まず映画の終盤を見ていて一番気になったのは、エブリンはその後どうなるのだろうということだった。
以下はネタバレになるけれども……エブリンは友を救うために、自分の魂を悪魔に渡すことを約束して自死するのである。
以下はネタバレになるけれども……エブリンは友を救うために、自分の魂を悪魔に渡すことを約束して自死するのである。
この場合、エブリンは地獄に堕ちて、悪魔の餌食にされるのだろうか。そうだとしたらあまりにも気の毒である。
そこで、キリスト教的には、エブリンはどうなるのか調べてみた。
そこで、キリスト教的には、エブリンはどうなるのか調べてみた。
*自殺について
キリスト教では、自殺は禁じていたように思うので、まずはこの点について調べてみた。
その結果はこちら ↓
その結果はこちら ↓
この牧師さんは、すべての自殺は罪であり、悪であると決めつけるようなことはしていないようである。ただこの方の聖書に対する考え方をみると、かなりリベラルな方のようではある。
一方、こちらでは、「聖書によると自殺は殺人です。自殺はいつも間違った行為です」と明言している。「いつも」というのは、例外なしということかな。これは気になる。
さらに調べると、次のページがあった。
ここでは次のように回答されている。
現代において、カトリック教会は自殺に対して次のような態度をとっていると言えるでしょう。①生命は神からの賜物であって、人間がそれを神の御旨に反して絶つことはゆるされない。②しかし、自ら生命を絶たねばならないほど苦しんだ挙句に死んだ人々を、神が救いたいと望まないはずがない。③教会は、苦しみの果てに自殺した人々が永遠の救いに到達できるように祈る。④そのような苦しみに追い込まれる人がいなくなるよう、教会は社会に対して働きかけていく。
これは分かりやすい。
この問答はイブリンのような場合を想定しているものではないようではあるけれども、①によれば、自分の命を「神の御旨に反して絶つことはゆるされない」ということらしい。
とすれば、「この世で最も尊い愛とは、友のために命を投げ出すこと」という教えに従ったイブリンは罪に問われることはなさそうである。
うん、これで納得。まあ当然こうなるでしょう。
イブリンのように、友を救うためとはいえ、自分の魂を悪魔に渡すことを約して自死するのは、クリスチャンではない自分からみても相当に危ないのではないかと思うのだが、でも上の考え方からすれば、神はイブリンの魂を救ってくれそうではある。
とすれば、「この世で最も尊い愛とは、友のために命を投げ出すこと」という教えに従ったイブリンは罪に問われることはなさそうである。
うん、これで納得。まあ当然こうなるでしょう。
イブリンのように、友を救うためとはいえ、自分の魂を悪魔に渡すことを約して自死するのは、クリスチャンではない自分からみても相当に危ないのではないかと思うのだが、でも上の考え方からすれば、神はイブリンの魂を救ってくれそうではある。
自分は神学者ではないので、この件について確定的なことは言えないのだけれども、とりあえずはこれでひと安心。
*悪魔に狙われる人
作中では、悪魔がどのような人を狙うかについて、次のように語られる場面もある。
悪魔の標的は、心が弱っている人間(1:07:08~)
これは分かる気はする。
悪魔がいるか、いないかは知りようのないことだけど、心が弱っている時は、何でも悪い方に考えがちではある。
こういう場合、ネガティブ思考は悪だと単純に決めつけることはできないにしても、あまりに極端なネガティブ思考は警戒すべきではある。
心が弱っているときは、あまり考えすぎないようにしつつ、元気が回復するのを待つのがよさそうではある。
こういう場合、ネガティブ思考は悪だと単純に決めつけることはできないにしても、あまりに極端なネガティブ思考は警戒すべきではある。
心が弱っているときは、あまり考えすぎないようにしつつ、元気が回復するのを待つのがよさそうではある。
*渡る世間に鬼はない
こういう映画では、主人公に近付いてくる人物のなかに、悪魔崇拝者が紛れ込んだりしているものである。
一見したところでは、すごく優しく親切に見えても、実は悪魔崇拝者で、主人公を騙し、罠にかけようとしていたという展開である。
だから自分は、本作を見つつ、「こいつはやけに親切すぎる。あやしい」「こいつは無関心を装ってるが、実は夫婦の様子を偵察しに来てるんじゃないか」とか、むやみに善人キャラを疑っていたのだが、結果的には自分の勘違いばかりだったようだ。
思えば、現実の生活でもこういうことはある。相手のことを疑っていたが、実際には普通にいい人だったというパターンである。
こうしてみると、人を疑うのは、疲れるばかりで、いいことは何もないようである。平和ボケはよくないが、人を疑いすぎるのもよくない。
この辺りのバランス感覚は大事だなあと、映画を見て思った次第である。 〈了〉
一見したところでは、すごく優しく親切に見えても、実は悪魔崇拝者で、主人公を騙し、罠にかけようとしていたという展開である。
だから自分は、本作を見つつ、「こいつはやけに親切すぎる。あやしい」「こいつは無関心を装ってるが、実は夫婦の様子を偵察しに来てるんじゃないか」とか、むやみに善人キャラを疑っていたのだが、結果的には自分の勘違いばかりだったようだ。
思えば、現実の生活でもこういうことはある。相手のことを疑っていたが、実際には普通にいい人だったというパターンである。
こうしてみると、人を疑うのは、疲れるばかりで、いいことは何もないようである。平和ボケはよくないが、人を疑いすぎるのもよくない。
この辺りのバランス感覚は大事だなあと、映画を見て思った次第である。 〈了〉