*気になる一節 (三つ)
『1Q84』で、気になる一節がいくつかあったので感想を書いてみた。


*知ることと、信じること
まず、この一節には、とてもハッとさせられた。

私たちは、お互いを信頼しなくてはなりません。しかし相手が誰であれ、知るべきことを知らずして、人を信頼することなどできません。
(村上春樹『1Q84 BOOK1』新潮社、2009年、p.434)

これは本当にその通りだと思う。
はずかしながら、自分はかつて新興宗教に凝ってしまったことがあるけれども、こういう当たり前のことをはぶいてしまっていたのだった。
教祖のことをよくよく調べることもせず、知るべきことも知らずして、「この人は信頼できる」と独り決めしてしまっていたのだ。
今にして思えば、これは目隠しして地雷原を走り回るくらい危険なことだったように思える。


*宗教が成立する理由?
これも耳に痛い言葉だ。

世間のたいがいの人々は、実証可能な真実など求めてはいない。真実というのはおおかたの場合、あなたが言ったように、強い痛みを伴うものだ。そしてほとんどの人間は痛みを伴った真実なんぞ求めてはいない。人々が必要としているのは、自分の存在を少しでも意味深く感じさせてくれるような、美しくも心地良いお話なんだ。だからこそ宗教が成立する 
(村上春樹『1Q84 BOOK2』新潮社、2010年、p.234)
 
たしかに自分が宗教にハマったのも、痛みを伴った残酷な真実より、美しく心地良いお話を好んだせいかもしれない。
人生の目的と使命、生まれ変わり、ソウルメイト、天国と地獄、天使と悪魔、光の戦士、選ばれし者、1999年、世紀末大天変地異、救世活動…などを信じ、それによって自己の存在意義を感じ、充足感を得ていたのだった。
これは、ひたすら反省するしかない。とほほ。


*信仰と不寛容
これらもまた耳に痛い言葉だ。

信仰の深さと不寛容さは、常に裏表の関係にあります。
(村上春樹『1Q84 BOOK3』新潮社、2010年、p.206)

ものを考えない人間に限って他人の話を聞かない。
(同上、p.191)
 
熱心信者だった頃の自分は、その宗教の価値観によって他人をバッサ、バッサと裁いていたのだった。伝道と称して、他人の話を聞かずに一方的に自分の信じる宗教教義(教祖の受け売り)をしゃべりまくってもいた。
宗教を信じることで、よくなる人もいるだろうけれども、残念ながら自分の場合はそうではなかった。だから自分に関しては、上の指摘は的を射ていると認めないわけには行かない。
ここも反省しなければいけないなあと思う。
村上春樹作品はそんなに読んだことはないけれども、『1Q84』はカルト宗教やその二世信者などが登場しているせいか、宗教についての言及も少なくなく、興味は尽きない。他の作品も読んでみようかと思う。〈了〉