*信仰について
信仰についての短文記事を、加筆修正のうえで以下にまとめてみた。
*神のイメージ
神のイメージは人によって様々であり、恐ろしく厳しい存在だという人もいれば、限りなく優しい存在だという人もいる。
自分の場合は、後者であり、もし神が存在するならば、優しく、穏やかな存在にちがいないと思える。というか、そういうイメージしか持てない。
*神を忘れる信仰
痛いところはどこもなく、健康なときは、体のことは忘れているという。たしかにその通りである。
そうであれば信仰についても、健全な状態のときは、神のことは忘れているものかもしない。
*信仰について (無宗教という信仰)
自分には、無宗教が性に合っているようだ。
特定の宗教を信じているわけではないが、かといって神様を信じていないわけではなく、いろいろな神様に対して素直に手を合わせるという感じである。
神社、寺、教会、墓、仏壇…どこでも手を合わせるというのは、節操がなさすぎる気もするが、自分にはこういうのが落ち着くようだ。
*信仰について (ことばの限界)
宗教体験は、言葉では表現できないといわれる。
けれでも、これは言葉の限界を示しているというよりも、その人の認識力や表現力の限界を示しているだけではないだろうか。
自分の体験を的確に言葉に置き換える能力があるなら、宗教体験を言葉で表現することも可能となるのではないか。
ことばが神であるとするならば、ことば(神)に不可能はなさそうである。
*信仰について (合理性)
信仰は、論理を超えることはあっても、論理に反することはないのではないだろうか。
三次元の論理で結論が出せなくとも、異次元の論理で結論が出せる場合はあるかもしれない。
けれども、三次元の論理ではっきりバツと結論が出たのに、異次元の論理では、それとは反対にマルになることなんてあるのだろうか。
三次元と異次元の世界が、まったく別個の独立した世界なら、そんなこともあるかもしれない。
でも三次元を異次元の世界が包み込んでいるとするならば、三次元の論理ではっきり出せた答えが、異次元の論理でひっくり返るというのは考え難いように思う。
*信仰について (議論の困難さ)
信仰についての議論が難しいのは、信仰は理性を超えたものであり、議論には適しないからなのだろうか。
それとも、信仰は論理ではなく、情緒であるからだろうか。
どちらが本当だろう? どちらも本当かな。
*信仰と妄想
信仰とは、素朴に、善なる存在を信じること。または論理的、宗教的に突き詰めて考えたあとで、それでも信じることを止めないこと。
妄想とは、馬鹿げたことを、考えなしに事実と思い込むこと。または屁理屈を重ねて、馬鹿げたことを事実だと言い張ること。
*信仰とトンデモ
信仰は、真摯で、切実で、涙に通じる。
トンデモは、興味本位で、軽薄で、笑いに通じる。
*信仰の共有は可能なのか?
同じ宗教を信じている者同士でも、信仰について話をしてみると、なかなか意見が合わなかったりする。浅い話であれば合わないこともないが、深く掘り下げていくと段々に合わなくなってくる。
こういうことが何度もあると、どうも信仰とは個人的なものであって、他人と共有することはできないのではないかと思わないではいられない。
「これからの宗教は、組織的なものではなく、個人的なものとなっていくだろう」という意見があるけれども、これは自分に関しては当たっているようだ。
*信仰について (個人的な問題?)
神は、個々人が心に描いた妄想にすぎないなら、信仰は、個人的な問題にすぎないのかもしれない。
けれども、神は個人の妄想でなく、客観的に存在するなら、信仰は、個人的な問題ではすまず、もっと大きな問題となりそうだ。
*信仰と自己責任 1
信仰は、自分の意思だけでは、どうにもならないものらしい。
たとえば、〝神を信じなければならない〟と思うのに信じられなかったり、
〝この宗教はおかしい。信じるべきでない〟と思うのに棄教できなかったりするのは珍しいことではない。
もし信仰は意思の外にあるならば、信仰を持っているか、持っていないかについて責任を問うのはおかしなことではある。
*信仰と自己責任 2
もしも、神様が地上に降りて、救世主として清らかに生きたとき、それを信じなかった者が責任を問われて、地獄に堕とされたとしても自業自得であり、仕方のない話ではある。
けれども、神様が地上に降りて、救世主として清らかとはいえない生き方をしたとき、これを信じなかった者が責任を問われて地獄に堕とされるとしたら、なんだか、やりきれない心持ちがする。
*信仰と知識
世の人々を見ると、知識が豊富な人よりも、あまり教養があるとは言えないような人の方が神とつながっていると感じることは少なくない。
神とつながるためには、知識は必ずしも必要ではないらしい。
*神を信じることは出来るのか
以前の自分は、本気で神を信じているつもりだった。
でも実際には、自分は神を信じていたのではなくて、〝これこそ本物の神だ!〟という自分の判断を信じていただけだったらしい。
神を信じるのは難しい。
*神と向き合う信仰
信仰についての意見を聞いていると、神の前に頭を垂れる信仰が多いようだ。
でも自分は我が強いせいか、神の前であっても、きちんと顔を上げて、自分の意見を言いたくもある。神の前で、「自分は自分の為しうる限りのことをしました。何ら恥じるところはありません」と胸を張ることができる人生を送れたら、どんなに幸福だろうと思う。
でもこれは絶対無理だろうなあ。とほほ。
〈了〉
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がしました