*全体の感想
本書は、ずいぶん前に読んだことがあるけれども、ひさしぶりに再読してみた。
内容は、抽象的で奇妙な理屈をこねることはなく、実際に観察したことを、少々のユーモアを織り交ぜつつ、概ねそのままに叙述してあるので読みやすい。著者はもちろん、訳者にも感謝したい。
次に、本書中で興味を持った箇所について書いてみる。


*著者の人柄
まず訳者の解説によれば、著者はなかなかの好人物だったようである。

ラ・メトリが人にかくし立てをしない陽気な気持ちのよい人間であったことは、フリートリッヒ二世を始め、ヴォルテールも認めている
つき合えば気持ちのよい、機智にも学殖にも事欠かぬ現世的生活を愛する好漢であり、なによりも真理の探究にはたしかに熱意を燃やしている一個の学徒である。 
(『人間機械論』ド・ラ・メトリ著、杉捷夫訳、岩波書店〈岩波文庫〉、1996年、p.21)

明るく陽気で、機智があり、うまい洒落も言えて、教養もあり、探究心も旺盛というのであれば、これはすごい。
とはいえ、著者に対しては、「かれの出席が陽気にしないような集まりはなかった」という反面、「遠慮がかれの唇の上に住むことは稀だった」という指摘もあるようだ。
この辺りは何といったらいいか、ラ・メトリには映画『アマデウス』のモーツァルトのような一面もあったということかな。どうだろう。


*人の個性を決定づけるもの
ラ・メトリの意見によれば、人の個性は、その肉体によって決まるということのようである。人間機械論なんだから、これも当然か…。

体質が異なれば、それだけ精神もちがい、性格も品性も異なる。 [省略]  黒胆汁、胆汁、粘液、血液等、生まれつきによるこれらの液の多寡および種々なる組みあわせが各々の人間を異なった人間に造り上げていることは事実である。
(同上、p.48)

聞くところによれば、近頃は、人の心は、薬剤によってある程度コントロールできるようであるし、健常者とサイコパスとでは脳または脳の働きにちがいがあることが分かってきたという。
また人の個性は、遺伝的影響もあるらしい。
著者が言うように、胆汁などが人の個性を決定してるということはなさそうではあるが、肉体のちがいが精神を決定しているということを否定するのに有効な材料は年々減り続けているようではある。


*猿と人間
著者の意見は、動物と人間とは全くの別物ではなく、連続しているということらしい。
だから、もしも猿に発語器官を取りつけて、よく教育したならば、話ができるようになるだろうとしている。

猿と人間の構造および機能の類似は以上のごとくであるから、もしこの動物を完全に訓練すれば、ついにかれに発音を覚えさせ、従って或る国語を覚えさせるのに成功するであろうことは、ほとんど疑わないのである。
(同上、pp.63-64)

こういう実験は、SF、ホラーっぽい気がしないでもないが、猿のなかには手話ができるものもいるというし、それならもしも発語器官を獲得できたなら言葉をしゃべるようになっても不思議はない。
動物と人間とは連続しているということについては、ダーウィンの「人類の起源」でも様々な実例を挙げて語られていたのだった。この辺りはもはや自明の理で反論の余地はなさそうではある。


*人道的な動物
また著者は、動物にも道徳心はあるとして次の例を挙げている。

歴史は有名な獅子の例を提供している。その獅子は自分の猛威に委ねられた男を、自分の恩人であったことを認めて、引き裂くことを欲しなかったのである。
(同上、p.78)

この話は本当かどうか知らないが、いかにもありそうな話ではある。
またこういう極端な話でなくとも、ペットの犬などを見ているだけでも、彼らにも人間と同様に喜怒哀楽の感情はあり、他者に対する思いやりもあることは容易に想像できる。
そういえば、古代のある哲学者は、犬は、主人に忠実であると同時に、敵に対しては勇猛であり、これこそが軍人にとって必要な性質であるとしていたように思う。
この辺りを見ても、人間と犬とは全くの別物ではなく、連続しているのであり、犬は精神的な面において必ずしも人に劣っているわけではなく、むしろ人より勝っている点もあることを示しているといえそうである。


*良心の呵責
著者は、万人には良心があると強く信じているらしい。

人道を破壊することはできない。人道の刻印はすべての動物において非常に強いので、どんな野蛮な奴でも獰猛な奴でも後悔を感じるときがあることを予は少しも疑わない。
(同上、p.81)

人間を苦しめるものは、自分自身によって苦しめられる。かれの感ずる苦しみは、かれのなした悪事の正確な尺度である。 
(同上、p.83)

著者によれば、これだから人に悪を為さしめないために、地獄だとか、幽霊だとか、そんな作り話をする必要はないという。
また人は一時的に良心を見失って過ちを犯しても、我に返ったときには良心の呵責に寄って十分に罰せられるだろうとしている。
この辺りの考え方は、悪者は地獄に堕ちて永遠の炎に焼かれるべきだと宣う信者よりも、よほど宗教的であり、理想主義的であるようだ。


*実存主義?
これは、どこかで聞いたような言い回しである。

人間はおそらく偶然に地球の表面のどこか一点に投げだされたものであり、いかにして、またなにゆえ投げだされたかは知ることができず、ただ生活し死滅しなければならぬことを知りうるのみである。
(同上、p.85)

こういう人間観には、反発を感じる人もいるだろうと思う。
でも現実をありのままに見た場合、人は突然に、この世界に投げだされ、その後から自分を発見し、構築してゆくものであるしか言えないだろう。
著者は、人の本質はこの世に生まれる前から存在するとか、霊魂は不滅であるとか、そういう思想や信仰に寄り掛かることなく、その目で見たままの現実を語っているのだから立派なものである。


*幸福のために
著者は、幸福を実現するためには無神論者であるべきだとしている。

無神論者にならない限り、万人は決して幸福にならないだろう。 
(同上、p.91)

この後、著者は、無神論が広まれば、宗教を原因とする争いはなくなるだろうと続けている。
これは今でもよく言われることではあるが、確かに宗教が無くなれば、宗教に起因する争いは無くなるのが道理ではある。
とはいえ実際問題として、宗教を無くすことはできないだろうし、それを無くしたからといって平和になるとも限らないとは思うが、少なくとも妄信、狂信の類が無くなれば、もっと平和になるだろうことは確かではある。
無神論といえば、なんだか大袈裟だけども、せめて日本的な無宗教が広がれば、世の中はもう少し住みやすくなりそうには思う。


*まとめ
本書は、肉体と精神、動物と人間、良心という規範、宗教の害悪、無神論の有効性など、さまざまな論点が提示されている名著である。
神および霊魂の存在を信じる者からしたら、人間機械論のような考え方は厭うべきものかもしれないが、そういう人であっても自分の視野を広げたいと思う人であれば読んで損はないはずである。少なくとも自分の場合はそうだった。
というわけで、本書は宗教信者やスピリチュアリストには特におすすめしたい一冊であるし、自分も少し時間をおいてから、また読み返してみたいと思う。〈了〉