*スピリチュアルな文章
上の二冊の小説を読んでいたら、結構、スピリチュアルな文章が多かった。ちょこっと感想を書いてみたい。


*霊の思考力について
まず、「心霊アイドルの憂鬱」では、霊の思考力について次のように書いている。

死んだ後、生きてたときと同じくらいはっきり考えたり、考えに沿って動いたりできる霊は多くない。
(『霊感検定 心霊アイドルの憂鬱』織守きょうや、講談社〈講談社文庫〉、2016年、p.216)

霊となった香里の記憶や思考が、どこまではっきりしているのかはわからない。 
(同上、p.62)

どうやら本作では、霊の多くは、生前と同じレベルでの記憶、思考はできないという世界観らしい。
考えてみれば、クリスティーナ・リッチ主演の『キャスパー』でも、そういう設定だった。父親は死んで霊になった途端に、愛娘のことを忘れてしまっていた。
こういうのは何だか、さみしい心持ちがする。
もっともこれはあくまで物語上の設定であって、実際のことは分からないのではあるが…。


*霊は、トイレやお風呂を覗いたりする?
また同書では、霊はトイレや風呂を覗いたりするのかという質問に、霊能力者は次のように答えている。

ほとんどの霊は、家の中には、入らない。通り道になってるときとかは別だけど
生きた人間だって、目的もなく道を歩いたり、外をぶらぶらすることがあっても、理由も目的もなく、よそのおうちには入らない。もし鍵が開いてても、誰もいない町だってわかってて、警察も見てなくても、理由がなければ、入ろうとは思わないのが、普通、それと同じだと思う 
(同上、p.215)

霊は本当に存在すると考えた時、第一に心配になるのはプライバシーだけども、こういう答えは安心できてよい。
ドラキュラでさえ招待されない限りは他家には入れないというのだし、それなら普通の霊が、他人の家に入り込んできて、プライバシーを侵害することもなさそうではある。
ホラーでは、入浴中に悪霊に襲われたりもするけど、ああいうのはよほどの例外だと信じたい。


*供養
巷では、故人のことを思い出すことが供養になるという話がある。
でもそれとは反対に、故人のことを思いすぎると、故人はあの世に行けなくなるという話もある。
一体、どっちが本当だろうと思うのだが、「春にして君を離れ」には次の台詞があった。

思い出すのと、とらわれるのは違うよ。大事な人のこと、忘れる必要なんてない 
(『霊感検定 春にして君を離れ』織守きょうや、講談社〈講談社文庫〉、2017年、p.94)

これは分かりやすい。
故人のことを、時折、思い出して懐かしんだり、感謝したり、詫びたりするのはよいとしても、
故人のことが頭から常に離れず、激しい感情に押し流され続けるのは要注意ということなのだろう。
とはいえ、大切な人を亡くしてすぐに平常心に戻れるわけもないのだが、初七日、四十九日、一回忌、三回忌…と時間が経つうちに、心が落ち着いて行っているなら、それでよしとすべきかもしれぬ。


*霊が見えるときとは?
霊が見えるときに関しては、次のように説明されている。

視ている側の人間と、波長が合ったり合わなかったりする、そのタイミングで視えたり視えなかったりするだけで、霊はいつでもそこにいる、というケースもある。
(同上、p.279)

これは、スピリチュアルな方面では、よく言われることではある。
霊と波長が合えば、その姿は見えるが、波長が合わなければ見えないと…。
ただこの波長とは何であるかについては、諸説あるようではある。
たとえば、霊が見えるときは、自分と霊との個性、性格、興味などが重なっているからだという説もあれば、
自分自身もその時だけは、霊と同じく死者となっているからだという説もある。
この辺りの真相は一体どうなっているのだろうなあと思う。


*承認欲求?
大概の人は、他人から理解されたり、信じてもらいたいと思っているだろうけれども、それについて本書では次のように書いている。

誰か一人でも、自分のことわかってくれてる人がいたら……他の誰も信じてくれなくても、それだけで、大丈夫でいられるんじゃないかなあ。みんな 
(同上、p.308)

これと似た考えは、「マリア様がみてる」でもあったように思うが、この気持ちはよく分かる。
たとえ他人から信じてもらえなくても、自分をよく知る身近な人から、信じてもらえたら、もうそれだけでも十分ではある。
さらに踏み込んでいえば、仮に誰一人からも信じてもらえないとしても、神様は分かってくれると思えれば、それでもけっこう慰められたりもする。
これはお目出度い考え方だなあという気がしないでもないが、こういう人は案外に多いのではあるまいか。


*霊の形態
この辺りも、かなりスピリチュアリズム的であるようだ。

もやのようなものから、はっきりと人の形をしているものまで――足があるものも、ないものも、顔だけのものも、男も、女も、子どももいた。昼も夜も関係ない。
いつも視えるわけではないが、ふと気づくと、視界に紛れこんでいた。
清貴以外には、それらは視えていないらしい。 
(同上、p.313)

スピリチュアリズムでは、霊は、一種のエネルギーであるから、必ずしも特定の形をとっているわけではないという。
また一つの霊が、それを見る側の心理状態によって、さまざまな形に見えることもあるともいう。
上の記述は、こういう思想を背景にしてそうな気がしないでもない。


*まとめ
本シリーズを読んでいると、上で述べたこと以外にも、スピリチュアリズム的なものを感じさせる設定は多いし、その影響は大きそうだ。
この点からすれば、スピリチュアリズムの知識がある人であれば、本作はスムーズに読めるだろうし、きっと楽しめそうである。
というわけで、スピリチュアルな話が好きな人には、本シリーズは特におすすめできる作品である。お試しあれ! 
ちなみに今回取り上げたのは、シリーズの2巻目と3巻目である。1巻目はこちら。
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・『霊感検定』織守きょうや著(講談社文庫)
https://blogs.yahoo.co.jp/jiyuu2013/41312801.html