こんなことを自分で言うのも何だけれども、自分は、他人から「優しい」と褒められることが多かった。
でも過去に一度だけ、「冷たい」と責められたことがある。

その時はどうしてそんな風に言われるのか分からず、少なからず混乱したのだったが、今はその理由はよく分かる。

当時の自分は、とある新興宗教を信じきっていて、教条主義者のようになってしまっていたのである。
たとえば悩み苦しんでいる人には、「そういう悩みは、この教えによれば、かくかくしかじかのことが原因となってます。したがって、これこれこうすれば解決できます」というように、なんでも教義に当てはめ、教義に則った模範解答を示しさえすれば、さもそれですべてが解決されたかのように思い、悦に入ってた。

教義の万能性を信じるあまりに、教義的に正しく結論を出せば、それで事足りると思い込み、人の情緒、感情などには無頓着になってしまっていたのである。
いや、それどころか、正しい教えによって導き出した結論に不平を言い、受け入れない者に対しては、その者は悪霊に憑依されているか、認識力が未熟であるために、何が正しいかが分からないのだろうと見下してさえいたのだった。

まったく汗顔の至りであるが、こういう過去を振り返ってみると、宗教を信じるのは必ずしも悪いことではないのだろうけれども、あまりにもどっぷり漬かって、人間らしい心を見失ってしまうほどに妄信するのはよくないことがよく分かる。

もちろんこれには異論がある人もあるかもしれないが、少なくとも私の場合は、人間らしい情感をともなった健全な信仰を持つというよりも、宗教に酩酊しすぎて典型的なカルト信者のようになってしまっていたようで、この点はよくよく反省しなければならないと思う。〈了〉



*追記
ちなみに、上で述べた教義がどういうものであったかといえば、大雑把にいえば、人生、宗教、政治、経済、科学、学問、芸術など、あらゆる分野の根本であり、すべてを統合するものであるというものだった。
だから、この教義によってすれば、あらゆる問題に対処できて、明快な答えを導き出せるという触れ込みのものである。

当時は、そういう宣伝文句を信じ込んでしまったわけだが、後から冷静に考えてみれば、この世のすべての問題を解決して、統合するなんて、どだい無理な話である。
もしそれができるというのであれば、現実の複雑さを無視して、物事をありえないほどに単純化して、机上の空論を積み上げて、回答を出したつもりになっているだけのことだろう。

若気の至りとはいえ、あんな宣伝文句を真に受けてしまったのは、本当に浅はかだったなあと思う。とほほ。