自分がカルトにハマってしまった理由を考えると、霊的人生観を信じていたこともあるのかなあと思う。

霊的人生観というのは、大雑把に言えば、人の本質は霊であって、自らの霊性を高めるために、この世に生まれてくるというものではあるが、
こういう人生観からは、必然的に次の考え方が生まれる。

・前世からの縁を強く意識する。
「この人と出会ったのは、前世からの縁があるからだ」
「この人とは初対面のはずなのに、どうも昔から知っていたような気がする。きっと前世でも仲間だったのだろう」

・人に優劣をつける。
「この人は霊格が高い。だから判断力、理解力が優れている」
「あの人は霊格が低い。だから判断力、理解力が劣っている」
「この宗教の正しさが分かるかどうかで、その人の霊格は見当がつく。この宗教を正しいとする人は霊格が高く、正しくないとする人は霊格が低い」

・師を求める。
「自分の霊性を磨くには、霊格の高い師に学ぶ必要がある」
「師と出会うには、前世からの努力と縁が大切である」
「自分はようやく師と出会うことができた。自分はこのために幾転生も繰り返してきたのだ。この機会は絶対に逃してはならない」

こうしてみると、霊的人生観というものは、
身内だけでかたまり、批判者は霊格が低いと見下し、個人崇拝(教祖崇拝)を招くという、いかにもカルト的な思考を助長するもののように思える。

自分がカルトにハマったのも、こういう霊的人生観にどっぷり浸りきってしまったためもあるようだ。

   

もっとも霊的人生観には、心の慰めとして有用なところはある。
「死んだら終わりではない。人は霊として永遠に生きるのだ」
「死に別れた大切な人と、来世で再会できる」
「今生での苦労、努力は、来世で報われる」
という具合にである。

ただ、こういう良い所だけでなく、上で述べた欠点があることも確かだ。
どんな物事にも、プラス面もあれば、マイナス面もあるものだし、霊的人生観もその例外ではないのだろう。

だから霊的人生観について、そのすべては正であり、完璧であると信じ込んでしまい、マイナス面に対する警戒を怠った自分は、けっこうな代償を支払わされてしまったのだろう。

一般に宗教というものは、信じることを尊ぶものであるけど、
カルト的になるほど、信じきること…プラス面だけを見て、マイナス面は見ないことを求められるようだし、この点、注意が必要だ。

〈了〉