思い起こせば、自分がハマっていたカルトは、人間の本質については次のように規定していた。

・人は神の子であって、神と同一の性質を有する。
・人の内奥には神性が宿っており、それを顕現させれば神と合一できる。
・人は自らの霊性を磨き、高めることで進化し、神となることができる。
・人は心の曇りを晴らすことで、天上界と同通し、高級諸神霊のメッセージを受け取ることができる。
・人は心の曇りを晴らすことで、霊道を開き、霊能力を得ることができる。
・人の本質は霊であって、永遠の生命を有する。
・人の能力に限界はない。思ったことは実現する。だから自分にはできないと自己限定をしなければ、無限に発展してゆくことができる。
・キリスト教でいうところの原罪だとか、罪の子などという考え方は間違いである。人の本質は神とつながっている。

これらをまとめていえば、人は本来、神であって、永遠、無限の存在であるということ。高度な悟りを得れば、意識は宇宙大に広がり、宇宙即我、梵我一如、神我一如というような境地に達すると…。

   

自分は信者だったので、上のような人間観を信じていたわけだけども、今になって冷静になってみれば、
このような人間観は、自己肯定感を高め、より積極的な生き方を後押しするという良い面もあるだろうけれども、
鼻持ちならぬほどの高慢さを生み出すという一面もあったのは確かだ。

まあ上の思想を信じたゆえに、高慢になったり、反省しなくなったりする者が出たとしても、
それは上の思想が悪いというよりも、その者の解釈、理解がまちがっているとも言えるわけだけれども、
たとえそういう場合であったとしても、上の思想自体が、そういう勘違いを生みやすいという欠点を持っていることは否定できない。

こう考えると、思想というものは本当にやっかいであるし、それを信じるときにはよくよく注意しなければならないんだなあと思う。

   *

ちなみに自分みたいなお調子者は、人は神の子か、罪の子かは証明しきれないことだろうし、
それだったら真ん中を取って、その時々で二つの考え方を活用したらいいんじゃないかと思ったりもするが、
多分これは、無宗教的な考え方であって、熱心な信者からしたら受け入れ難いものだろうなあと想像する。
やっぱこの種の問題は難しい。

〈了〉





*コメント欄のコピペ
(yahoo!ブログからの移行時に、最新20コメより前のコメは移行されなかったので、その部分も含めてコピペ)


コメント(90)
顔アイコン自由さん、おはようございます

カトリック教会の正式な教義では、
イエスは、神の子であると同時に人の子であり、
どちらかに限定してしまうことは、教義に反することになります。
教会の教義では、イエスだけが神の子と同時に人の子であって、
他の人は、人の子であるだけ、ということになってますが、
福音書の中で、イエスが、あなた方は、みんな神の子ではないか、
と、はっきりと、神の子と言ってます。
なので、全ての人が、神の子であると同時に、人の子であるということが、
僕は、真実だと思います。
人の子の背負った、原罪からの罪については、
自他の罪を共に、全てを赦すことが出来れば、
罪からの解放も、起こりうることだと思います。
神の子か、人の子か、どちらかに限定してしまいたい、ということが、
原罪の結果に起こった、自我の誘惑だと思います。
そして、何かを限定するという思考の結果、
赦すことができない、という罪の状態に陥るのだと思います。
なので、どちらかに限定しないという自由さんの選択に、
とても共感します。
すみません、長々と書いてしまいましたm(__)m
2018/8/21(火) 午前 7:16[ エル ]返信する

顔アイコンエルさん、こんばんは。
自分の感慨を理解してもらえて、うれしいです。
キリスト教でいうところの神の子、人の子のお話も、とても興味深いですね。
それから、カトリックの教義と、私論とをきちんと区別して書いてくださってるのは感謝です。
自分はキリスト教に詳しくないので、いろいろな方のお話をうかがっている時に、正式な教義なのか、私論なのか、よく分からないことが多々あるもので…だから、そこのところを明示してもらえると本当にありがたいです。
2018/8/21(火) 午後 9:03[ 楽山 (自由) ]返信する

顔アイコン私たち人間が神の子というのは、神に愛される、ということとほぼ同値だと思います。キリストが神の子、という、神と同じように人を救う存在という意味とは、やはり違うと思います。
2018/8/28(火) 午前 2:34st5402jp返信する

顔アイコン神の子キリストは大人になってから成長する必要はなかったわけですが、
私たちは大人になってからも神に愛されて成長する必要があるのだろうと思います。
2018/8/28(火) 午前 2:36st5402jp返信する

顔アイコン一口に、神の子といっても、その中身(意味)には違いがあるんですね。
ちょっと思い出したけど、みんな神の子だけども、キリストは実子で、普通の人たちは養子になるという話を何かで読んだ気がします。
2018/8/29(水) 午後 7:21[ 楽山 (自由) ]返信する

顔アイコン> 自由さん

神と人とが同じとは考えられません。神は創造者でありてあるものですが、人は被造された存在であり、ありてなきものですし、神は自存的存在ですが、人は依存的存在ですし、神は永遠不変、普遍の存在ですが、人は死すべきもので、神の心は聖、義、愛でいつも、どこでも、どんな時も変わることのない真実であり、人の心はころころ変わりますから心というともいわれますし、ここにいて、また同時にどこにでも存在できるわけでもありません。
養子論は私も聞いたことがありますが、養子縁組の前の人はどういう人だったのでしょうね。きっともともと神の子だったけれど、何か悪さをして、勘当されて神との縁を切られたけれど、悔い改めて帰ってきたので、また神の子とされた?ということなのでしょうね。
面白くて興味ある考え方ですね。でも何か悪さをする神の実子というのは神の性質にそぐわないようにも思われますし、神の御子であるイエスさまを実子とすると、人が神の実子でありながら、その人が神の御子であるイエスさまを神を汚すものとして十字架につけたのはどういうことになるのでしょうか?
ウ~ン、むずかしいですね。
2019/1/21(月) 午後 1:44[ shalom ]返信する

顔アイコン>2019/1/21(月) 午後 1:44

記事に書いてるのは、ざっくりいえば、「霊性進化論」ということになると思います。

『現代オカルトの根源:霊性進化論の光と闇』大田俊寛 (著)という本に詳しいです。
オウム、幸福の科学などが、どういう流れで出現してきたのがよくわかる。
2019/1/21(月) 午後 6:58[ 楽山 (自由) ]返信する

顔アイコン> 自由さん

人間が有限で、相対的存在である以上、その思想も有限で、相対的であることは避けられないはずなのですが、でもそのような不確かさからくる不安を逃れるために、その思想を確かなものであると信じようとするのも人の神を求めずにはおられない弱さゆえでしょうか。
2019/1/22(火) 午後 5:47[ shalom ]返信する

顔アイコン> 自由さん こんばんは
イエス・キリスト信じる「霊性進化」に方向についてですが、普通私たちの進化という言葉のイメージからすると「下から上に向かうこと」と考えがちだと思うのですが、イエス・キリストを信じる道は「下へ上る道」と言えるようです。
それがイエス・キリストの道なのですから、
聖書にはそのイエス・キリストの上から下へ歩まれたことを次のように記されています。
使徒パウロの言葉です。
「2:6 キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、 2:7 かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、 2:8 おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。」と。(ピリピ3:6~8)
2019/1/22(火) 午後 10:42[ shalom ]返信する

顔アイコンまた使徒ペテロは次のように書いています。
「 2:21 あなたがたは、実に、そうするようにと召されたのである。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、御足の跡を踏み従うようにと、模範を残されたのである。 2:22 キリストは罪を犯さず、その口には偽りがなかった。 2:23 ののしられても、ののしりかえさず、苦しめられても、おびやかすことをせず、正しいさばきをするかたに、いっさいをゆだねておられた。 2:24 さらに、わたしたちが罪に死に、義に生きるために、十字架にかかって、わたしたちの罪をご自分の身に負われた。その傷によって、あなたがたは、いやされたのである。」と。
新約一ペテロ2:21~24)

さらに使徒パウロは次のように記しています。
『3:16 しかし主に向く時には、そのおおいは取り除かれる。
3:17 主は霊である。そして、主の霊のあるところには、自由がある。3:18 わたしたちはみな、顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく。これは霊なる主の働きによるのである。」
(新約第二コリ3:16~18)
2019/1/22(火) 午後 10:43[ shalom ]返信する

顔アイコン「栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく。」とはしてへ上ることを意味しています。
それは十字架の道です。
イエス・キリストはご自分の苦難と十字架につけれられ死ぬ時が近づいた時、言われました。
『12:23 すると、イエスは答えて言われた、「人の子が栄光を受ける時がきた。 12:24 よくよくあなたがたに言っておく。一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる。
12:25 自分の命を愛する者はそれを失い、この世で自分の命を憎む者は、それを保って永遠の命に至るであろう。」と。
(新約ヨハネ12:23~25)
「自分の命を愛する者」はそれを失い、この世で「自分の命を憎む者は」それを保って永遠の命に至るであろう。
「自分の命を愛する者」とはこの世の下から上への道を歩む自己愛に生きるこの世を支配している道であり、それは死の道です。
「自分の命を憎む者」とはこの世でイエス・キリストの道である上から下への歩む自己愛をイエス・キリストともに生ける神にゆだねるいのちの道です。
2019/1/22(火) 午後 10:44[ shalom ]返信する

顔アイコンイエス・キリストを信じて受ける洗礼について次のように使徒パウロは記しています。
「6:3 それとも、あなたがたは知らないのか。キリスト・イエスにあずかるバプテスマを受けたわたしたちは、彼の死にあずかるバプテスマを受けたのである。6:4すなわち、わたしたちは、その死にあずかるバプテスマによって、彼と共に葬られたのである。それは、キリストが父の栄光によって、死人の中からよみがえらされたように、わたしたちもまた、新しいいのちに生きるためである。 6:5 もしわたしたちが、彼に結びついてその死の様にひとしくなるなら、さらに、彼の復活の様にもひとしくなるであろう。」と。
(新約ロマ6:3~5)

聖書の言葉を列記しましたが、これらのことは聖書全体を貫いている事柄です。
これらの言葉は神の言葉であり、神の御心ですから、この世の常識、人の思い、考えでは理解することの困難な言葉です。しかし、神は私たちを上から下へ登るイエス・キリストが歩まれた道へと導くことによって私たちにみことばの真実を悟らせることができるのです。
2019/1/22(火) 午後 10:45[ shalom ]返信する

顔アイコンイエスさまがだれでも幼な子のようにならなければ神の国に入ることができないと言われた理由です。
言われてわからなかったのはニコデモというイスラエルの律法の教師であるニコデモでしたが、霊的な神の真理は神が導き、開いて下さいます。
「2:4 そして、わたしの言葉もわたしの宣教も、巧みな知恵の言葉によらないで、霊と力との証明によったのである。
2:5 それは、あなたがたの信仰が人の知恵によらないで、神の力によるものとなるためであった。 2:6 しかしわたしたちは、円熟している者の間では、知恵を語る。この知恵は、この世の者の知恵ではなく、この世の滅び行く支配者たちの知恵でもない。
2:7 むしろ、わたしたちが語るのは、隠された奥義としての神の知恵である。それは神が、わたしたちの受ける栄光のために、世の始まらぬ先から、あらかじめ定めておかれたものである。」
(新約・一コリ2:4~7)

信仰は私たちの思想ではなく、神の啓示と神のみことばと神の導き、助けによって与えられる事柄です。

また長くなりました。また明日お会いしましょう。
おやすみなさ~い
shalom!
2019/1/22(火) 午後 10:47[ shalom ]返信する

顔アイコン霊性進化論については、この辺りが参考になるかもしれません。

大田俊寛著『現代オカルトの根源』(ちくま新書)読書感想文
http://antikkuma.hatenablog.com/entry/2013/07/13/182145
「霊性進化論」について思ったこと
http://antikkuma.hatenablog.com/entry/2013/07/15/020137
霊性進化論を信じる渡邉美樹
http://antikkuma.hatenablog.com/entry/2013/07/17/224053
番外篇File001:創造意識(惑星エル星意識etc.)中村光希
http://antikkuma.hatenablog.com/entry/2013/07/20/135354
大田俊寛さんインタビュー「なぜ人間はオカルトにハマってしまうのか?」
http://antikkuma.hatenablog.com/entry/2013/08/23/225356
2019/1/23(水) 午後 9:29[ 楽山 (自由) ]返信する

顔アイコン>2019/1/22(火) 午後 10:47

信仰は神の導き、救けによって与えられるというのは、ちょっと分かる気はします。
まえは、信仰に限らず、よい思いは自分の良心の働きと感じてたけど、最近は自分以外の働きがあるような気がすることはあるので。
まあこういうのは錯覚で、実際は遺伝や育成環境の影響にすぎないかも、だけど。
2019/1/23(水) 午後 10:30[ 楽山 (自由) ]返信する

顔アイコン自由さん
2019/1/22(火) 午後 10:44のコメント
「してへ上ることを意味しています。」は「下へ上ること」です。「下へ上る」なんて変な言い回しですが、聖書にはこんな変な言い回ししないと表現しにくい言葉や文章があるようです。
それも大事なことほどですから厄介です。
2019/1/25(金) 午後 4:36[ shalom ]返信する

顔アイコン> 自由さん

とりあえず「大田俊寛著『現代オカルトの根源』(ちくま新書)読書感想文」を読みました。
とても分かりやすくなるほどと思いました。
根っこにあるのはやはり
「しかし言うまでもなく、それらを生み出してきた人間の負の心性自体が、根本的に消え去ったというわけではない。そうした心情は今日、社会システムの過度な複雑化、地域社会や家族関係の歪み、個人の孤立化などによって、むしろ増幅されてさえいるだろう。」ということだと感じました。

また自由さんがこのような霊性進化論に20数年以上かかわってこられたのだとわかりました。
また少しずつ読んでみますが、やはりイエスさまとともに「下へ上る道」、十字架の道こそがいのちの道あると思わされました。感謝!
2019/1/25(金) 午後 5:12[ shalom ]返信する

顔アイコン霊性進化論は、幸福の科学的にいえば、霊的人生観ということになるかと思います。

人の本質は霊であって、永遠の生命をもっていて、この世とあの世を輪廻転生しつつ、霊性の向上を目指しているというような人生観。
2019/1/25(金) 午後 8:15[ 楽山 (自由) ]返信する

顔アイコンあと、霊性の向上といっても、それには二つの方向性があるとしてたかな。
上求菩提、下化衆生というやつ。
霊性向上を求めつつも、迷っている人々の救済にも励むというような感じ。
別な言い方をすれば、進歩と調和かな。
幸福の科学でも、それなりの理屈はあるってことですね。
2019/1/25(金) 午後 8:16[ 楽山 (自由) ]返信する

顔アイコンただ、おかしいのは、幸福の科学は、ダーウィンの進化論の影響下にあるだろう霊性進化論を唱えながら、ダーウィンの進化論にダメ出して猛批判してるところ。

さらに言えば、大川隆法はダーウィンの霊言で、ダーウィン霊に、人になりかけの猿を探していると言わせてたこともおかしい。
普通に考えれば、本物のダーウィンだったら、猿と人との共通の祖先を探してるとは言っても、人になりかけの猿を探してるなんて言うわけないんだけどね。
多分、大川隆法は、猿が人になったというのと、猿と人は共通の祖先をもつということの違いが分かってないのだろう。
2019/1/25(金) 午後 8:21[ 楽山 (自由) ]返信する

顔アイコンなんか、また批判がましいことを書いてしまったけど、大川さんの本は、いろいろな分野のことを語ってるから、いろいろな分野に興味を持つ切っ掛けづくりにはなるかもしれないけど、間違い、デンパ、トンデモもすごく多いから、そこは注意が必要だとは思います。
2019/1/25(金) 午後 8:40[ 楽山 (自由) ]返信する

顔アイコン> 自由さん おはようございます
「大川さんの本は、いろいろな分野のことを語ってるから、いろいろな分野に興味を持つ切っ掛けづくりにはなるかもしれないけど、間違い、デンパ、トンデモもすごく多いから、
そこは注意が必要」

きっとそうですね。
偽札鑑定の秘訣はたくさんの偽札を触り、知るよりも、とにかく本物によく触り、知ることが大事だと聞いたことがあります。
幸福の科学も科学なのでしょう。科学は仮説とその検証、実験から始まりますが、生ける神は作家が作品によって自己を表現するように、神は被造物とご自身の啓示の器として選ばれた民とその歴史、超自然的な神の御業、啓示によってご自身を証しされますが、神の御言葉である聖書と御言葉の真理を拓き、悟らせてくださる聖霊の導き、助けが何よりです。
2019/1/26(土) 午前 9:49[ shalom ]返信する

顔アイコンイエスはご自分の苦難と死を前にして、不安と恐れにおののく
弟子たちに次のように約束されました。

新約・ヨハネによる福音書
16:12 わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。
16:13 けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう。
16:14 御霊はわたしに栄光を得させるであろう。わたしのものを受けて、それをあなたがたに知らせるからである。

ヨハネによる福音書14章から16節はイエスさまの死をまえにされた死の意味、死後に起こることを語られた遺言なのです。
2019/1/26(土) 午前 9:50[ shalom ]返信する

顔アイコン団体の名称については、はじめのころは、「幸福を科学する」ということだったかと思います。真なる幸福とは何かを探究しようとか、そんな感じ。

そうして、「あの世とこの世を貫く幸福」という標語がありました。「この世で金持ちになり、権力もってウハウハでも死後に地獄に堕ちたら仕方ない。逆に、あの世で天国に還れてもこの世では不遇で悲惨なのもつらい、そうであれば、この世でもあの世でも幸福な生き方を探求しよう」という感じですね。

ただ最近は、「〇〇を科学する」という話はほとんどなくて、とにかく信じることを推奨してるようです。教祖は、「君よ、涙の谷を渡れ」などの法話で、「何も考えずに信じてついてきてください」と訴えてるそうです。
2019/1/26(土) 午前 10:21[ 楽山 (自由) ]返信する

顔アイコン「知ること」については、OR(大川隆法)は、知ることの大切さを説きつつも、それ以上に信じることを重視してます。
知るとか、科学とかは、おもにこの三次元世界の話であって、信じることはこの三次元世界を超えた世界の話だから、信じることの方がスケールが大きく、大事だとか…。
「知ること <<< 信じること」ということらしい。

でも自分はこれと逆に、「知ること >>> 信じること」と考えてます。「知らないことは、信じようも何もない。はじめに知り、そのうちのどれかを信じるということになるんだろうし、だったら、信じることは、知ることより範囲は狭いんじゃないか」と思うので。
2019/1/26(土) 午前 10:22[ 楽山 (自由) ]返信する

顔アイコン> 自由さん こんにちは

「知るとか、科学とかは、おもにこの三次元世界の話であって、信じることはこの三次元世界を超えた世界の話だから、信じることの方がスケールが大きく、大事だとか…。」

仏陀は徹底的に知ることを追い求め、この世における三次元を超える世界はあるともないとも考えず、涅槃寂静という三次元世界の最高の悟りの境地を得ましたが、それは悟りを開いた人だけのの小さな乗り物といわれる小乗仏教となり、人は知っても、修行を積んでも悟りを得ることができないとき、信じるだけで救われるだれでも一緒に乗ることができる大乗仏教という大きな乗り物を涅槃寂静に代わる阿弥陀如来による三次元を超える救いを見出したとおもわれます。
2019/1/26(土) 午後 1:28[ shalom ]返信する

顔アイコン人は知ることから信じることへ三次元の世界から三次元を超える世界に飛躍するには人にはどうしても超えられない渕があるようです。イエスさまは滅びに至る道は広く、命の至る道は狭いといわれましたが、幼な児のようにならなければ神の国へ入ることはできないともいわれました。その道は人には狭い道のようです。幼な児は知の世界ではなく、信の世界に生きているといえると言えるかもしれませんね。人には広いようで狭い道だといえるでしょうね。
2019/1/26(土) 午後 1:29[ shalom ]返信する

顔アイコン>幼な児のようにならなければ神の国へ入ることはできないともいわれました。

この部分については、自分は文字通りに解釈してたけど、もうずっと前に、さる方は、幼児というのはイエスのことだとか言ってたのが、すごく印象的でした。ああそういう解釈があるんだなと。
2019/1/26(土) 午後 4:58[ 楽山 (自由) ]返信する

顔アイコン仏陀の話がでてるけど、仏陀の人間観といえば、五蘊仮和合ということなんでしょうかね。

・五蘊仮和合 - 宇宙のこっくり亭
https://blog.goo.ne.jp/konsaruseijin/e/6b63916f29de10b092f69c051f23bb21
2019/1/26(土) 午後 5:00[ 楽山 (自由) ]返信する

顔アイコンどうも自分にとっては、五蘊仮和合を信じるのも、特定の宗教の神様を信じるのも、どっちも難易度は高いです。
やっぱ、霊魂、あの世、神はあるような気もするけど、でもやっぱりないのかもしれないという宙ぶらりんの無宗教が一番、性に合ってるようではあります。
2019/1/26(土) 午後 5:08[ 楽山 (自由) ]返信する

顔アイコン> 自由さん こんばんは
「幼児というのはイエスのこと」
一番わかりやすく、一番いい解釈だと思います。
が、イエスは罪なき神の御子であり、私たちは神のかたちにかたどって造られた人の子ですが、イエスが父として信じておられた神との関係と交わりを見失っているのです。その的外れの状態を罪と言います。そのために、イエスのような幼児のような信仰を信仰とすることができないのです。
イエスの主体性は父なる神に対するイエスの自由意志による信仰によって、神にゆだねられていましたが、神が食べてはならない、それを食べると死ぬと言われた善悪を知る木の実を食べることによって、神との自由意思による信仰をと関係を失いう、それを死というのです。その死によって私たちは自由意思によって神の御手にゆだねる信仰ではなく、善悪の基準を自らの手の内にあるとして、私たちの主体性は神に対する不信仰によって支配されて生きるものとなっているのです。
2019/1/26(土) 午後 6:03[ shalom ]返信する

顔アイコン神は私たちの罪によって失われた神への自由意思による幼児のような信仰をイエスの十字架の死によって、本来私たちが罪の代価として自ら支払うべき代価を支払い、私たちが神による罪の贖いによって与えられる罪の赦しを信じ受け容れるとき、失われた神との関係と幼児のような信仰を回復してくださったというのが福音なのです。幼児のような信仰はイエスが幼児のように神のみことばと聖霊の導きによって十字架の死に至るまで従い生きられたように、御言葉と聖霊の導きに対する幼子のような信仰によって生きることなのです。ですから、イエスさまはご自分の死を前にして語られた遺言によって、そのことが明らかにされているのです。(ヨハネ14章~16章)
2019/1/26(土) 午後 6:04[ shalom ]返信する

顔アイコン弟子たちにイエスは今は、知性や理性では耐えられない、理解を超えたことだとイエスは語っておられますが、しかし、助け主である聖霊がイエスの死、御業、語られた言葉、神の御心を、イエスの死後、あなたがたに教えてくださいますと語っておられるのです。
このようにして神はイエスによって幼児のような信仰へとわたしたちを導いてくさるのです。まさに人にはできないが、神にはできる律法の成就であり、救いの成就です。
2019/1/26(土) 午後 6:05[ shalom ]返信する

顔アイコンありがとうございます。幼児というのはイエスのことだという解釈は、アリみたいですね。ふむふむ。

あとの部分は、自分には難しいですけど、「的外れの状態を罪と言います」というのは、うろ覚えですが、三浦綾子のエッセイで読んだことがあるような気はします。

それにしても、shalomさんはすごいですね。情熱的な語りに圧倒されました。
2019/1/26(土) 午後 7:13[ 楽山 (自由) ]返信する

顔アイコン> 自由さん こんばんは

「あとの部分は、自分には難しい」

たしかにキリスト教という一宗教の考え方としてはきっとわかりにくいと思います。でもきっと自由さんなら、これが本来の姿である人間の心の神に対する幼子のような信仰、信頼を、神のようなものになれると騙し、偽り、自由意思を奪い、主体性を奪い、善悪の基準をすべてカルトの支配者にゆだね、支配されカルトのいうがまま罪の奴隷とされ隷属化された人間を支配者であるカルトのボス?から救い、解放し、癒すために、神がイエスという救済者、解放者、癒し主を遣わされたと想定すればわかりやすいと思いますがいかがですか?
2019/1/26(土) 午後 9:47[ shalom ]返信する

顔アイコン確かにイエスは騙され、的外れの罪の奴隷と化している私たちを救い、解放し、癒す方なのです。現実にカルトに勝利し、囚われている人を解放し、人それぞれの自由を超えた、神に対する自由意思を回復し、その自由意思と主体性を回復するために神がイエスを遣わされ、罪の奴隷としての自我をイエスととも十字架につけられる死の道によるほかに確かな救いはないと思われますが、いかがでしょうか。

大坂なおみさん全豪オープンテニス優勝しましたね!
一度は逆転されそうになりましたが・・・あっぱれ!優勝しました!うれしいですね!
2019/1/26(土) 午後 9:47[ shalom ]返信する

顔アイコンうーん、自分は最近は、「〇〇は、××のためだった」という考え方は、なるだけ避けてます。

ずうっと前に、大川本を読んだ時、「自分が生れてきたのは、この教えと出会うためだった」と思い込んで痛い目に遭った過去があるので…。
2019/1/27(日) 午前 8:35[ 楽山 (自由) ]返信する

顔アイコンものごとに意味や目的を見いだせれば、すごく気持ちがいいし、生き甲斐を持てるのはわかります。

でも自分は元々、迷信深く、思い込みが激しいところがあるので、そっち方面にはあまり進まない方がよさそうではあります。
2019/1/27(日) 午前 8:36[ 楽山 (自由) ]返信する

顔アイコン> 自由さん こんにちは

「痛い目に遭った過去」、「迷信深く、思い込みが激しいところがある」

自由さんのその気持ち私もあります。
痛い経験や迷信など、私たちの心、生き方を不自由にしているトラウマを乗りこなすのは難しいですね。やはり辛いこと、思い出したくないことの再体験は嫌でつい避けて通りたくなります。
でも振り返ると私の大きな生き方の転機はいつも行き詰まりやそういう避けて通りたいときに開かれたことが多かったように思います。よく危機はチャンスだなんて言われますが、確かにそうだなと思います。
神はその時、私をいやなトラウマから自由にして、神による新しい道を開かれる時だということは聖書に一貫して証しされていることのようです。
イエスの十字架の苦難と死はイエスにとって最悪の出来事ですが、それが父なる神の最善の道だと信じて、まさに幼児が親の手にゆだねるように“私の思いではなく、御心のままにしてください”と祈られたイエスさまの祈り、信仰の歩みによって私たちの前にいのちの道が開かれたのですから感謝ですね。でも、それでもやはり避けて通りたいと思う弱い自分がありますね。
2019/1/27(日) 午後 3:24[ shalom ]返信する

顔アイコントラウマというか、心の傷というか、そういうのもあるけど、どうもこういう思考は、ヒトの脳が持っている癖でもあるようなんですよね。目的‐機能論的推理とかいうらしい。
ちょっと検索してみたところでは、この説明が分かり易いかも。

2019/1/27(日) 午後 7:56[ 楽山 (自由) ]返信する

顔アイコン>『ヒトはなぜ神を信じるのか』 逃れられない神の目
>本書には、信仰が生得的である証拠を示す研究が多数紹介されている。例えば、ボストン大の心理学者ケルマンによる実験では、7~8歳児は、自然界の無生物は目的を持って存在している(例えば、木は鳥が休むために存在する)という、目的‐機能論的推理を圧倒的に好む傾向が示されている。これは、親が宗教を信仰しているかどうかに因らない、普遍的な傾向だそうだ。学校教育を受けている多くの子どもは、10歳を越える頃から、目的‐機能論的説明よりも、科学的説明を選び始める。しかし、教育を受けていない大人のジプシーやアルツハイマー患者は、いずれも目的‐機能論的説明を好むという。
https://honz.jp/articles/-/15418
2019/1/27(日) 午後 7:57[ 楽山 (自由) ]返信する

顔アイコン自分は先に述べた通り、大川本を読み、ハマったときは、「自分はこの本に出会うために生まれてきたのだ」と思いつめてしまったのでした。

あと、大川さんの言動に疑問を持ち始めた頃は、「これには深い理由があるに違いない。何かの目的のために、あえて矛盾したことをしているのだろう」と思うようにしてた。

さらには、退会したときには、「自分はなぜ大川さんを信じてしまったのだろう…きっと前世のカルマ清算のために違いない」と考えたりしてた。

その中身は、「自分は、前世ではアングリマーラのように、師匠の間違った命令を拒否できなかったのだろう。だから今生では、カルト教祖の信者となり、その間違った命令を拒否できるかどうかという課題が与えられたのだろう」というもの。

まさに、ずうっと、「〇〇は、××のためだった」という思考だらけです。
2019/1/27(日) 午後 8:00[ 楽山 (自由) ]返信する

顔アイコンというわけで、自分はそろそろこういう思考から抜け出さないといけないなあと思ってます。

こういう思考は、ヒトの性でもあるようだから、完全に抜け出すのは無理だろうけれども、今よりもうちょっと距離をおきたいなあと…そういうわけです。

自分は、心霊とか、宗教とかの知識を仕入れちゃってるので、もし目的‐機能論的推理をすれば、上で少し述べたようにトンデモ、デンパな方向に行ってしまうのは火を見るより明らかですから、ここは自分を守るためにも、そっちとは距離をおくしかないということ。
2019/1/27(日) 午後 8:14[ 楽山 (自由) ]返信する

顔アイコン> 自由さん こんばんは
人と他の生き物との違いは本能に従って生きるか、本能と自由意思をもって三次元世界における目的、意味にかなう行動、生き方を選択すること、またその生き方がどのような死後の三次元以上を世界、地獄や極楽、天国、神の国を招くかを考えたりすることと言えるかもしれませんね。だから人は寺院をつくり、宗教的な儀礼や墳墓に副葬品を備えたりするのではないかと思います。このこと自体はどんなに科学が進歩しても、古今東西、人の心にあり、特に日本人の心にはアニミズムに由来する因襲が日本文化の核になっていることは否定できませんので、日本人が日本人である以上なくなることはないと思われます。今日の政治風潮も明らかにそういう強い傾向への回帰を感じさせます。
2019/1/27(日) 午後 9:58[ shalom ]返信する

顔アイコン「自分は、心霊とか、宗教とかの知識を仕入れちゃってるので、もし目的‐機能論的推理をすれば、上で少し述べたようにトンデモ、デンパな方向に行ってしまう」

そういう私たちの過去の心の痛みや苦しみ、不安、飢え渇きから解放し、癒し、真の自由を与える方がイエスだと私は信じ、それが真実であることは聖書の証言でもあり、私の体験として知っています。
真理はあなたがたに自由を与えますなんて人が言える言葉ではありませんし、さらに、イエスは私は道であり、真理であり、いのちです。だれでも私によらないでは父のもとに行くことは出来ませんと言ったり、それは狂気の沙汰で、神でなければ神を汚す人物に違いありません。私もそう思います。カルトの教祖にはそういう人物もいるようですね。イエスも伝統的なユダヤ教によるとそういう人物だと断罪されたのです。
2019/1/27(日) 午後 9:59[ shalom ]返信する

顔アイコンカルトにかかわった人はほんとうに深いトラウマを心に負いながら、「もし目的‐機能論的推理をすれば、上で少し述べたようにトンデモ、デンパな方向に行ってしまうのは火を見るより明らかですから、ここは自分を守るためにも、そっちとは距離をおくしかないと」と長い間新たな心のよりどころを求めながらも、フォビア(恐怖)と戦っておられる人が多いことは私も数人知っていますし、否定できない事実です。私も決して例外ではありません。私が劣等感のないオープンな人だと書いておられましたが、わたしにも同じような防衛機制がはたらいているのです。自己防衛機制は決して悪いものではありませんが、同時に自分の心の自由な働きを規制し、拘束する働きでもあります。
2019/1/27(日) 午後 10:00[ shalom ]返信する

顔アイコン同化も投影も反動形成も、知性化も・・・私たちの防衛機制として働いていますが、他の人を批判したりしていても、ある意味自分を守るバリアーでもあります。
自由さん。自由さんだからこそ、私はこうして私の思うこと、信じることを自由に書いていますが、だれにでも書けることではありません。それは自由さんが自由であり、真剣に自由に生きようとしておられるからです。自由さんの心に踏み込んだり、批判をしている意図はありませんので、いつでも自由に思うこと、感じることを書いてください。ほんとうに自由であることには自分のうちや外との戦いなしには生きることは出来ませんね。
この世にあってはあなたがたには戦いがある。しかし、勇気を出しなさい。私はすでに世に勝っていると言われたイエスがいつも共におられます。私たちが自覚しようと自覚できないとしても。
SHALOM!
2019/1/27(日) 午後 10:02[ shalom ]返信する

顔アイコンこんばんは。
とくに批判されてるとは思ってませんけど、信仰と情熱に圧倒されてはいます。
全然関係ないことですけど、なんとなしに、ジョー・ペリーの「熱く語れ!」を思い出しました。子供の頃に雑誌広告で見て以来、「熱く語れ!」というのは忘れられない言葉になっているせいかな。

・ジョー・ペリー・プロジェクト「熱く語れ!」1980年
https://ameblo.jp/johnny-marr/entry-11377426752.html
2019/1/28(月) 午後 7:51[ 楽山 (自由) ]返信する

顔アイコン目的‐機能論的推理に対する警戒は、自分を含めた他のHS信者さんたちを見てのことでもあります。

霊的なことを信じた上で、目的‐機能論的推理をすれば、なにかにつけて、「この事件の霊的な背景はこうだ。霊的な理由はこうだ」という考え方をするようになるようです。その結果、妄想と現実の区別がつかなくなってゆく…。私はそんな風にはなりたくないと思っるわけです。

目的‐機能論的推理は、ヒトの性のようだから、無くすことはできないし、そんなことを目指すべきではないだろうけれども、それが暴走しないように注意はしておこうと…。
2019/1/28(月) 午後 8:07[ 楽山 (自由) ]返信する

顔アイコン自由については、私は自由尊重の立場ではありますが、その一方で運命論者でもあったりします。
絶対神がいるなら全ては予定されてるだろうし、絶対神がいなくても何らかの法則があるなら全てはニニが四なんだろうなあと。
マーク・トウェインの『人間とは何か』に共感するところも多いです。

・『人間とは何か』マーク・トウェイン
https://blogs.yahoo.co.jp/jiyuu2013/40319287.html
2019/1/28(月) 午後 8:08[ 楽山 (自由) ]返信する

顔アイコン自由については、過去にいろいろ書いてるので、そのうちに、まとめ記事にするつもりではいます。
2019/1/28(月) 午後 8:08[ 楽山 (自由) ]返信する

顔アイコン> 自由さん 自由さんの気持ちはよく理解できます。
教会でも目的‐機能論的推理による暴走はよくあります。
教会で聖霊の働きである導き、助けを強調されるとよく分裂、混乱が起こることがあります。霊はなにしろ見えないのですから、たしかにそういう危うさには気を付ける必要がありますね。そのために聖書のみ言葉との整合性をつねに求めることが不可欠だとおもいます。
使徒パウロは弟子であるテモテに次のように書いています。

新約・第二テモテ
3:14あなたは、自分が学んで確信しているところに、いつもとどまっていなさい。あなたは、それをだれから学んだか知っており、
3:15 また幼い時から、聖書に親しみ、それが、キリスト・イエスに対する信仰によって救に至る知恵を、あなたに与えうる書物であることを知っている。
3:16 聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である。
3:17 それによって、神の人が、あらゆる良いわざに対して十分な準備ができて、完全にととのえられた者になるのである。
2019/1/28(月) 午後 9:22[ shalom ]返信する

顔アイコンほかにもたくさん聖霊について書かれています。イエスさまも死を前にして弟子たちに聖霊の来臨とその働きについて話しておられます。イエスさまを信じる信仰は人から生まれた思想ではありませんから、神の言葉である聖書という土台抜きにはあり得ないのです。
2019/1/28(月) 午後 9:23[ shalom ]返信する

顔アイコン> 自由さん

「絶対神がいるなら全ては予定されてるだろうし、絶対神がいなくても何らかの法則があるなら全てはニニが四なんだろうなあと。」

神はとことんまで私たちの主体性と自由を尊重されます。カルトのように決して法則で私たちを縛り、支配される方ではありません。私たちは自由に選択し、行動することができますが、決して結果を選ぶことは出来ません。その結果が私たちにとって苦々しい受け入れられない結果であっても、その結果をとおして神は最善の導きをしてくださる方なのです。私たちの弱さや過ちですら、ご自分の祝福の通り管とすることのできる方です。
2019/1/28(月) 午後 9:50[ shalom ]返信する

顔アイコン確かに私たちが罪を犯せば、その罪が私たちの苦い結果をもたらしますが、神はその苦みをとおして、私たちをご自分のみもとに引き寄せ、み言葉の真実を証しし、私たちの信仰をみことばしっかり結び付けてくださいます。信仰は聞くことから、聞くことはキリストの言葉からという聖書の言葉だと書かれています。
神はすべてのことを相働かせて益としてくださる方だとも聖書にかかれています。全ての道で主を認めよ、そうすれば主はあなたがたの道をまっすぐにされるとも書かれています。
どんな弱さも失敗も神には神の恵みをあらわし、祝福としてくださいます。
2019/1/28(月) 午後 9:51[ shalom ]返信する

顔アイコン・ジョー・ペリー・プロジェクト「熱く語れ!」1980年
https://ameblo.jp/johnny-marr/entry-11377426752.html

開かれず、再生できませんでした。

・『人間とは何か』マーク・トウェイン
https://blogs.yahoo.co.jp/jiyuu2013/40319287.html

明日聞いてみます。
2019/1/28(月) 午後 10:06[ shalom ]返信する

顔アイコン自由さん おはようございます

・『人間とは何か』マーク・トウェイン
https://blogs.yahoo.co.jp/jiyuu2013/40319287.html

読んでみました。コメントは読後感想文でしました。
最後の締めがいいですね。
2019/1/29(火) 午後 3:24[ shalom ]返信する

顔アイコンちなみに、自分の場合は、
『人間とは何か』マーク・トウェイン
『脳のなかの幽霊』V・S・ラマチャンドラン、サンドラ・ブレイクスリー
『利己的な遺伝子』リチャード・ドーキンス
みたいな本を読むことで、霊性進化論の影響が薄まっていったようです。
2019/1/30(水) 午前 7:22[ 楽山 (自由) ]返信する

顔アイコン人間の主体性と自由について、シャロームは、相当に軽視してきたと思いますが、ここでは、手のひらを返したように、神が主体性と自由を尊重すると言っています。しかも、その結果を通して神が最善の導きをしてくれると言っています。さて、シャロームは、悔い改めない罪と偽善に塗れていますが、その偽善が神の祝福の”通り管”だとでも言いたいのでしょうか。
2019/1/30(水) 午後 2:01st5402jp返信する

顔アイコン>
確かに私たちが罪を犯せば、その罪が私たちの苦い結果をもたらしますが、神はその苦みをとおして、私たちをご自分のみもとに引き寄せ、み言葉の真実を証しし、私たちの信仰をみことばしっかり結び付けてくださいます。信仰は聞くことから、聞くことはキリストの言葉からという聖書の言葉だと書かれています。


シャロームの罪と偽善は、苦い結果によって、シャロームを、神のもとに引き寄せたでしょうか。神に引き寄せられたのなら、今までの罪と偽善を悔い改める発言があるはずですが、シャロームは、相変わらず、悔い改めた発言も様子も示さないまま、ここに、まともなつもりで、説教を書き続けていることが、そのことを明確に否定しているのです。
2019/1/30(水) 午後 2:01st5402jp返信する

顔アイコン>
神はすべてのことを相働かせて益としてくださる方だとも聖書にかかれています。全ての道で主を認めよ、そうすれば主はあなたがたの道をまっすぐにされるとも書かれています。
どんな弱さも失敗も神には神の恵みをあらわし、祝福としてくださいます。


シャロームが上で神が尊重すると言ったシャロームという人間の主体性と自由において、神はすべてのことを相働かせて益としてくださっているでしょうか。道は真っ直ぐになったでしょうか。何も益とはならず、真っ直ぐにもならず、シャロームは、何事も無かったかのように、自説を説教し続けています。シャロームの言行も因果も矛盾しています。
2019/1/30(水) 午後 2:02st5402jp返信する

顔アイコン弱さも失敗も、正直に告白して赦しを祈る精いっぱい誠実な信仰者にとってだけ、神の恵みは顕れ、祝福となるのです。つまり弱さや失敗が、成長の糧になってゆくのです。

シャロームは、罪と偽善を悔い改めず、罪悪感も抱かず、まるで気にせずに、白々しい説教言葉と聖書語を言い続けているあいだ、悔い改めない者として、偽善者のままであり、ますます、ペテン師らしく、平気で嘘を吐いて回るようになってゆくのでしょう。
2019/1/30(水) 午後 2:02st5402jp返信する

顔アイコン※ TVドラマ「クリミナルマインド」の格言から

http://toikimi.hateblo.jp/entry/2018/07/11/211656

庭には、植えたつもりのない物の方が多く育っている。(スペインのことわざ)

https://twilog.org/cminds_bot/month-1508/3

物事は見かけ通りとは限らない。見かけにだまされる人間は多い。ごく少数の知恵のある者が、巧妙に隠された真実を見抜くのだ。 ファイドロス (S4#4)

経験は残酷な教師だが、人を大きく成長させてくれる。 C・S・ルイス(S5#13)

人は嘆き悲しむからこそ人間なのである。 アントニオ・ボルキア(S6#20)
2019/1/30(水) 午後 2:02st5402jp返信する

顔アイコン> 自由さん

やぁほんとうに自由さんの読書歴は豊富ですね。
あちこち記事を読みながら自由さんは本当の人や物事に対する気配り、目配り、心配りが豊かなのだなと感じます。すばらしい反面、これでいいのかなという心の揺れをよく感じられることもありなのかなと感じます。宗教は確かな視点になりそうで、またある種の偏りとなる危うさとなることもあるのですから、本を読まれて、いろんな考え方や心の思いなどと触れてより良い配慮ができるようにしようとしておられるのかなと思ったりしています。
2019/1/30(水) 午後 6:50[ shalom ]返信する

顔アイコンすぐそばにある不都合なコメントをスコ~ンと無視して、背筋がぞっとするようなベタ褒めでご機嫌取り、この見かけの優しさが、7年付き合っていると、身の毛の弥立つ思いです。このコメントの背後にある、意地と無視力の悪意の強さを知ってほしいところです。まさに、ペテン師の営業トークでしょう。
それと、シャロームが、病気や障害を持つ人に関わると、その人を滅ぼすことになるでしょう。そういう例があったのではないかと推測します。そういうことも、無かったかのように、忘れることの出来るシャロームだから、恐ろしいのです。
2019/1/30(水) 午後 7:11st5402jp返信する

顔アイコン心の揺れというのは、私の文章を読んでそういう風な感じを受けることがあるということでしょうか。うーん、それはもろもろの理由から、あえてそういう表現をしているだけの場合もちょいちょいあります。
2019/1/30(水) 午後 7:59[ 楽山 (自由) ]返信する

顔アイコンおはようございます。

本を読むには、できるだけ偏りを無くそうというのはありますね。一つの意見を知ったら、その反対意見も知っておこうとか。
でもこれって実践は結構難しいですね。やっぱ好悪、相性はありますからね。どうしても好きなもの、相性のいいものに偏ってしまうので。
2019/1/31(木) 午前 6:58[ 楽山 (自由) ]返信する

顔アイコン話があちこちで進んでるので、ややこしくなってますね。
全部にコメント返すのは大変っぽいので、とりあえずここに書いてます。
2019/1/31(木) 午前 7:05[ 楽山 (自由) ]返信する

顔アイコンこのブログは、最近はほとんど趣味のブログになってますが、前はHSの信者、退会者を意識してたりしました。そのせいもあって、HSでタブー視されてる考え方、本、映画などをたくさん紹介してました。
ORの教えは絶対だという考え方に対しては、「ORとは反対の考え方にもすばらしいものがあります」としてORの教えの相対化をはかってるわけです。
また、あれだめ、これだめという考え方には、「HSが禁じている本、映画にも素晴らしいものがいっぱいあります。自由にいろいろな本、映画を見ましょう」というわけです。
2019/1/31(木) 午前 7:15[ 楽山 (自由) ]返信する

顔アイコン、、、稀に、このブログを読む価値無しとしつつも、無視できないでいる信者さんもいるみたいだけど、多分、上のような部分がその理由なんだろうなあと想像してます。
ちなみに、信者と議論になった時などによく言われる言葉はこれです。

「もっともらしいことを言ってるけど、決して騙されないぞ!」

信者さんもORの教えは絶対ではなく、その反対の考え方にも理があることは分かってるんだと思います。でも「アンチは悪霊悪魔だ、アンチの言うことを聞き入れてはいけない」という風に、マインドコントロールされて、心の自由を失ってるみたいです。ここは本当に気の毒です。
2019/1/31(木) 午前 7:26[ 楽山 (自由) ]返信する

顔アイコン> 自由さん おはようございます

「教えは絶対ではなく、その反対の考え方にも理がある」

そうですね。
教えはすべて相対的で、一長一短、それも状況によって変わるのですから、教えそのものによってマインドコントロールされることはなく、その人、人格に対するマインド・コントロールされると教えが絶対化され、心の自由を失ってしまうから怖いですね。
教えをいくら批判しても、「アンチは悪霊悪魔だ、アンチの言うことを聞き入れてはいけない」「もっともらしいことを言ってるけど、決して騙されないぞ!」となるので、
カルトやカルト的な人と話すと、問答集に従って話していて言葉が通じないことがほとんどですね。

あちこちの記事を読んで足跡コメントを残していますが、見過ごししてくださっていいですよ。
2019/1/31(木) 午後 0:02[ shalom ]返信する

顔アイコン何といったらいいか、全部が全部そういうわけではないのだけど、信者さんのなかには、現実を教義に合わせて変換してしまう人がいるんですよね。

現実には、アンチにはいろいろな人がいて、いろいろな考え方があるわけだけど、そういう信者さんは、アンチが何を言っても、「アンチはこういう考えを持ち、こういうことを言うものだ」という教義に合わせて変えてしまう。
アンチの言葉をそのまま聞き、理解するのじゃなくて、必ずと言っていいほど、「アンチはこう言う」という教義に合わせて変えちゃう。これは本当にやっかいです。

最近は、「悪魔の論理との戦い方」という本が出たようで、信者ブログを読むと、悪魔が何を考え、どんな言葉で惑わしてくるか分かったというようなことを書いてたりするので、上の傾向はますます強まるのだろうなあ……。
2019/1/31(木) 午後 7:31[ 楽山 (自由) ]返信する

顔アイコンなんか、愚痴っぽくなってますね。失礼。
2019/1/31(木) 午後 7:32[ 楽山 (自由) ]返信する

顔アイコン>あちこちの記事を読んで足跡コメントを残していますが、見過ごししてくださっていいですよ。

そう言ってもらえるとありがたいです。どうも。
2019/1/31(木) 午後 7:33[ 楽山 (自由) ]返信する

顔アイコン> 自由さん こんばんは

「アンチの言葉をそのまま聞き、理解するのじゃなくて、必ずと言っていいほど、「アンチはこう言う」という教義に合わせて変えちゃう。これは本当にやっかい」

ですからカルトなのですが、カルトは批判を胎盤として誕生しているのですから、カルトを正そうとして批判しても、「よく悪魔が何を考え、どんな言葉で惑わしてくるか分かったと・・上の傾向はますます強まるばかりになることが多いようです。そういうとき、イエスさまは私たちを“裁いてはならない、裁く(批判する)あなたも同じことをしている”という聖書の言葉(マタイ7章冒頭)の真実に向き合わせられたりすることがあります。批判している時の自分の姿って自分には見えない、気づきにくいですから、ついこちらもムキになったりしてしまうことがありますから。(◎_◎;)
2019/1/31(木) 午後 9:48[ shalom ]返信する

顔アイコン自分の姿が見えず、むきになってしまうというのは、確かにありますね。
人を裁くな、立ち向かう人の心は鏡なり、人の心は変えられない、変えられるのは自分のこころだけ…戒め、教訓はたくさんあるけど、議論が白熱して、言い合いみたいになると、そういうことはつい忘れてしまうという。
そういや、スッタニパータにも論争から距離をおくべしというような話はありましたね。
2019/2/1(金) 午前 6:36[ 楽山 (自由) ]返信する

顔アイコン> 自由さん おはようございます。

ぶろぐ「 釈迦仏教の根本思想について」のdyhさんによればッスッタニバータは仏陀の語った元の言葉であるということで、アートマンの存否については無記として、争いのもとになるから、一切議論しないと考えられていたようです。dyhさんは涅槃寂静?の体験をされ、一切の議論から退かれ3年ぐらいになるでしょうか。でもdyhさんの記事を読んでコメントすると丁寧にコメントされますね。
2019/2/1(金) 午前 9:20[ shalom ]返信する

顔アイコン仏陀の根本仏教ではアートマンの存否について無記とし、死後の世界も無記、当然仏像信仰もなかったのでしょう。ひとりの人間の瞑想修行によって生老病死という四苦と愛する者との別れや、嫌な人に会わずにはいられないなどの八苦からの救いを修行によって悟りを得、涅槃寂静に至る出家修行仏教の小乗仏教か、またはアートマンであるアートマン?的な阿弥陀如来による本願成就による救いを信じる在家大衆救済大乗仏教に分かれているようですね。大乗仏教は長い歴史の中で仏典結集が繰り返される中で、仏陀の教えから離れ変遷を経て産みだされた仏教の新興宗教だったのかもしれませんね。今は真の仏陀による根本仏教はネパールやスリランカ(旧コロンボ)などのほかではほとんど残っていないとも言われているようです。
2019/2/1(金) 午前 9:23[ shalom ]返信する

顔アイコンシャロームは、批判からカルトが出来るようなことを言っています。批判に何も答えることが出来ず、反論も弁明も出来ないものだから、シャロームは、自己正当化のために、批判が悪いということにしたいようです。

シャロームは、誰からも批判されず、好きなことを言い続けたいようですが、もうしそうなれば、キリスト教も、キリスト信仰も、救いも、シャロームの幼稚な妄想に付き合わされることになり、また、人間の、理性も、情性も、真実追求も、正義も、言論も、善いものは全部、妄想に取って代わられてしまいます。それは、人類の堕落と神への背きが支配する世界です。
2019/2/1(金) 午前 9:47st5402jp返信する

顔アイコン何度でも言います。シャロームの、罪は悔い改めなくても赦されるから気にしなくていい、という言説が、妄想であることは明らかです。もしすべての人が信じたら、シャロームのように我欲のままに、嘘を吐き、偽善を働き、人を無視して、誰もが勝手なことして悔いないような破滅的な世界になります。シャロームは、自分が何を言っているのか、分からないようです。
2019/2/1(金) 午前 9:47st5402jp返信する

顔アイコンまたシャロームの詭弁です。批判は、カルトの偽善者であるシャロームに向けていますが、シャロームは、それを教えを批判していると言っています。このような、すり替えを平気でしてくるのが、シャロームです。したがって、言葉が通じないのは、シャロームのほうです。
2019/2/1(金) 午前 9:48st5402jp返信する

顔アイコンカルトは、批判を胎盤とはしていません。カルトは、シャロームも含めて、自説絶対の訂正不能を胎盤として生まれ、正当な理路と情緒を滅ぼしてゆきます。そうして、シャロームは、自分で人間としての説明が出来ないものだから、先手のように、悪魔を登場させ、超常世界の妄想によって、それを批判者に向けて、正論を滅ぼしてゆく狙いのようです。
2019/2/1(金) 午前 9:48st5402jp返信する

顔アイコン妄想と訂正不能にどっぷりとつかっているシャロームこそ、自分の姿が見えない、気づかないのです。それを、いかにも、自分が正論で柔和であるかのように見せかけるために、ムキになることを戒めていますが、シャロームは、向きになる代わりに、動じない信仰ではなく、不感不応の無視を生業として、自分が反論できないことの正当化をしているのです。
恐ろしい詭弁家がいたものです。これが、ずうっと、シャロームの生業なのです。
2019/2/1(金) 午前 9:49st5402jp返信する

顔アイコン(自由さん)
自分の姿が見えず、むきになってしまうというのは、確かにありますね。

(私)
むきになって、心を乱すほうが、セメントのように無反応になって、代わりに「(笑い)」を入れるよりは、よっぽど、人間らしいと言えるでしょう。
2019/2/1(金) 午前 9:55st5402jp返信する

顔アイコン(自由さん)
人を裁くな、立ち向かう人の心は鏡なり、人の心は変えられない、変えられるのは自分のこころだけ…戒め、教訓はたくさんあるけど、議論が白熱して、言い合いみたいになると、そういうことはつい忘れてしまうという。

(私)
議論は何のためにあるのでしょう。テーマについて掘り下げてゆくことで、是非、正邪、適否、善悪、そういったものを、人間として目一杯判断するための材料を提供するためです。「人の心は変えられない、変えられるのは自分のこころだけ」を前提にしてしまったら、現出するのは、何も変えられない世界、進歩も成長もなく、悪や偽善が好きなようにはびこる世界です。
2019/2/1(金) 午前 9:55st5402jp返信する

顔アイコンろくに議論も出来ず、反論の理路も持たず、妄想をごまかすためにだけ丁寧語を漁ってくるシャロームのような偽善者にとって、今回も、聖句「さばくな」の悪用によって従わせるような批判禁忌の不文律は、もはや武器となっています。まさに、批判禁忌は、キリスト教の先入観がが生んだ最悪の産物であります。
2019/2/1(金) 午前 9:56st5402jp返信する

顔アイコン上でスッタニパータに振れたので、一応、見返してみたけど、「論争をしてはならない」としてますね。部分を切り取って読むのはダメだろうけど、他の箇所を読んでも論争を奨励してるという感じはしないですね。

>895 これらの偏見を固執して、「これのみが真理である」と宣説する人々、──かれらはすべて他人からの非難を招く。また、それについて(一部の人々から)称賛を博するだけである。

>896 (たとえ称賛を得たとしても)それは僅かなものであって、平安を得ることができない。論争の結果は(称賛と非難との)二つだけである、とわたしは説く。この道理を見ても、汝らは、無論争の境地を安穏であると観じて、論争をしてはならない。
http://hosai02.la.coocan.jp/dammapada-01/suttanipata-all-text.htm
2019/2/1(金) 午後 7:59[ 楽山 (自由) ]返信する

顔アイコン私を偏見だと言って、シャロームの偏見を見逃している。なぜかと言えば、シャロームは世辞を言うので楽だから。
2019/2/2(土) 午前 5:53st5402jp返信する

顔アイコン私は、シャロームのような偽善者にとって迷惑で有害だろう。シャロームは、全てのキリスト者にとって、気づかれにくく、迷惑で有害だ。
闘わない者は、平和を造れない。闘いを否定する者は、他者の犠牲と死を、かわいそうに、と言いながら放置する。
偽善者らしくなってきたようです。
2019/2/2(土) 午前 5:56st5402jp返信する

顔アイコンあなたは、アドラーからも、スッパ何某からも、楽になるようなことだけを学んできたように思われる。あなたは楽になり、気づかないうちに、誰かが苦しむだろう。真実の追求を止めて、自己の安寧に走っている姿。
2019/2/2(土) 午前 6:00st5402jp返信する