自分がハマってしまったカルトでは、「信仰は100パーセントでなければならない」としていた。
「信仰は100パーセント信じきることが大事であって、少しの疑いも許されない。疑いは悪魔の心だ」といった調子である。
当時はこの教えを信じて、100パーセント信じきる努力をしていたけれども、今、冷静になってみれば、これはいかにもカルト的だったかなあと思う。
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そもそも人は、完全なものではない。というか、完全とは程遠い存在である。
そうであれば、100パーセントの信仰(完全な信仰?)を達成せよというのは、どだい無理な話である。
神様が、人に対して、無理なことを命ずるわけもないのである。
また先の記事でも、少し触れたことだけども、ものごとにはプラス、マイナスの両面があるものだ。
とすれば、100パーセントの信仰なるものは、いってみれば、信仰のプラス面だけを見て、マイナスを見ないということでもあろうし、
これはブレーキの無い車で、アクセルを思い切り踏み込み続けるくらいに危険極まりないことかもしれない。
こう考えると、100セントの信仰というのは、一時的に気分を高揚させる扇動的なスローガンにはなり得ても、必ずしも実践的な教えではないし、
信仰者は、このようなその場限りの景気付けにすぎない文句に惑わされないように注意する必要があると思う。
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ちなみに、遠藤周作によれば、キリスト教の方では、信仰について、90パーセントの疑問と、10パーセントの希望という考え方があるという。
・信仰の中身? (遠藤周作『私にとって神とは』)
おそらくは、多くの信仰者にとっては、100パーセントの信仰よりは、こちらの方が現実だろうし、参考になるのではないだろうか。
宗教で失敗しないためには、信ずる(アクセル)だけでなく、疑問(ブレーキ)も、絶対に必要であろうし、
少しの疑問(ブレーキ)も許さず、闇雲にすべてを受け入れることを強いる宗教は、普通の宗教とはちょっと違うものなんだろうと思う。
我ながら、なんか、カルトにハマって痛い目に遭ったせいか、あつものに凝りて、なますを吹く状態になってるような気がしないでもないが、とりあえず今はそんな風に感じる次第である。
〈了〉
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