*アブラハムと信仰義認
先日、アブラハムは義人だったのか否かという議論を読んだのだけれども、現時点における自分なりの感想を書いておきたいと思う。
まず議論の出発点はこの部分である。
先日、アブラハムは義人だったのか否かという議論を読んだのだけれども、現時点における自分なりの感想を書いておきたいと思う。
まず議論の出発点はこの部分である。
アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。(創世記15:6)
思うに、この部分は、さらっと読んだ感じでは、主はアブラハムを義人と認められたようにみえる。
でもよくよくみると、「彼を義と認められた」ではなく、「彼の義と認められた」とある。「を」ではなく、「の」になってる。
ということは、主は、アブラハム全体を義としたのではなく、彼の中にある何か…つまり「主を信じた」という信仰を義と認められたということになりそうである。
以上をまとめると、この一文は、「主はそれ(アブラハムの信仰)を、彼の義と認められた」という意味なんだろうと思う。
「彼を義と認められた」というよりも、「彼の信仰を義と認められた」のだろう。
ということは、主は、アブラハム全体を義としたのではなく、彼の中にある何か…つまり「主を信じた」という信仰を義と認められたということになりそうである。
以上をまとめると、この一文は、「主はそれ(アブラハムの信仰)を、彼の義と認められた」という意味なんだろうと思う。
「彼を義と認められた」というよりも、「彼の信仰を義と認められた」のだろう。
*義認と聖化
次に、信仰によって義とされたら、それはすなわち義人という意味なのかについてだけども、検索すると次の記述が出てくる。
改革派によれば、旧約のアブラハムも信仰によって義と認められたのである
神に義と宣言され新生した者は聖化に進むが、一度限りの義認に対し、聖化は過程である
これによると、義認の次に、聖化という過程があるらしい。
これはつまり、義認されたら、即、聖人(義人?)になるわけではないということのようであるし、それならば、義認されたから義人だとは言い難いようではある。
*ロマ書
ロマ書では、アブラハムについて次のように書いてある。
もし、彼が行いによって義とされたのであれば、誇ってもよいが、神の前ではそれはできません。聖書には何と書いてありますか。「アブラハムは神を信じた。それが、彼の義と認められた」とあります。(ロマ書4:2-3)
これはそのまま読めば、アブラハムは、行いのすべてを義とされたのではなかった、ただその信仰は義と認められたということなのかなと思う。
ちなみに、同じくロマ書には、こうもある。
正しい者はいない。一人もいない。(ロマ書3:10)
これは文語訳では、「義人なし、一人だになし」ということだけども、これからいっても、心も行いも正しい、まったき義人はいない、アブラハムも例外ではないと考えるのが、基本なのかなと思う。
自分は、聖書には詳しくないので、まちがいもあるかもしれないけれども、上記の議論を読み、自分なりに調べた結果としては、現時点では大体このような考え方に落ち着いている。
*参考
迂闊ながら、義人の定義をしてなかったので、ちょこっと調べてみると、ヤフー知恵袋では次のように説明されてた。
三浦綾子「塩狩峠」を読んだのですが、その中の「義人なし、一人だになし」という言葉の意味が分からなかったので、教えてくださいm(__)m
どれだけ良い人でも、心の中では他人をうらやんだりねたんだり、のろったりしてしまうものである。これが人間の生まれながらに持った罪、「原罪」というものだ、ということですね。「義人」というのはこの原罪を持たない人間のこと。彼女の信仰からもわかるように、つまり義人はイエス=キリストただ一人です。
これはすごく分かりやすい説明だと思うけど、これを読むと、ますます「義人なし、一人だになし」ということは鉄則であって、例外はないということを実感させられる。仮に、例外があったとしても、それはイエスキリストだけだと…。
人々から敬愛される善良な人物としての義人ならば、さまざまな場所、時代に存在し得るのだろうけれども、唯一の絶対神の前でもまったき正しい人とされる義人は存在し得るかについては、「義人なし、一人だになし」ということなのだろうと思う。
〈了〉
加えて、ということになりますが、アブラハムが息子イサクを神への生贄とするために殺すという行為が、たとえ神の正しい命令であったとしても、人間がそれで、はい、理解しました、と言ってしまうのはおかしいという考え方を私はしています。聖書を読んでいると、正直言って、神の正しさを、いつも人間が理解できるとは思えないのです。だから、ここは保留するべきという主張になりました。
tam
がしました