信仰と情緒について、つらつら考えつつ、過去記事を見てみたら、やっぱり似たようなテーマですでに書いてた。

・人間らしくありたい

どうやら自分の考え方は、この記事を書いた頃と、ちっとも変わってないらしい。今でも、信仰や主義に忠実であろうとするあまりに、人間らしい情緒を失ってしまっては何にもならないと思ってる。

思い返してみれば、自分がこういうことを意識するようになったのは、とある宗教団体で見聞きしたことが切っ掛けだった。
たとえば、そこでは次のような女性信者の話が、美談として語られていた。

「主宰先生(教祖)の講演会に行こうとしたときでした。子どもが急に熱を出したために、出掛けるのが難しくなりました。そこで私は、サタンに向かってこう言いました。
『サタンよ、そのような妨害をしても無駄だ。この子を連れて行きたいなら、連れて行くがいい。私は何があっても講演会に行く。この子とはまた来世で会うこともできようが、主宰先生とは今生でしか会えないのだ。この機会は絶対に逃すことはできない』
この後、子どもの熱はすっと下がり、無事に講演会に行くことができました」云々

これは多分、教義的には正しいことなんだろうとは思う。教祖への信仰が最優先事項であること、信仰によってサタンを退けたこと、子供を見捨てたように見えしも最終的には子供を救ったこと、真理を学ぼうとする情熱、人は霊であり、輪廻転生を繰り返しつつ、永遠に生きているという霊的人生観から是非判断すること等々。

こんな風に、上の判断は、教義的にはいくらでも擁護することはできる。でもどういうわけか、自分には情緒的に納得できないものが残ったのだった。

情緒的ということは、悪い意味で使われることも少なくないが、そうであっても情緒は人が持っている判断基準のうちで、もっとも根本的なものの一つであろうし、ならばこれを軽視するのはよくないのではあるまいか。というか、情緒の自然な動きを否定したのでは、心が苦しくていけない。

宗教・思想に傾倒しすぎたり、勉強をしすぎたりすると、ついつい情緒を軽視したり、忘れがちになることもあるけれど、人間らしさを失わないためにも、この部分は常々、気を付けたいものではある。極論になるかもしれないが、情緒のためには、宗教の本よりは、絵本や幼年童話を読むほうがよほど良い場合も少なくないと思う。〈了〉