遠藤周作の『沈黙』は、何年か前に読んで感動した小説だけど、今回は再読し、映画も見てみた。
 
今回の再読でも、大体、前と同じ部分が印象的だった。まずは、何度も転び(棄教)つつも、イエスから離れられないキチジローのことである。
 
『沈黙』を読むと、殉教した者はすごいけれども、キチジローのように殉教できなかった者も、そのつらさゆえに、神とつながっているのかもしれないと思わせられる。殉教できる強さだけでなく、殉教できなかった弱さ、悲しさも救いに通じ得るのではないかというのは本当かもしれない。
 
律法を守ったと胸を張る者よりも、律法を守れなかったと頭を垂れる者の方が救いに近いとするならば、殉教した者よりも、踏絵を踏んだ者の方が救いから遠いとは限らないのかもしれない。
 
もう一つ印象的だったのは、外国人の神父が信じているキリスト教と、日本人キリシタンが信じているキリスト教とは、別ものであるという指摘である。日本人はキリスト教をそのままに理解、受容できず、どうしても日本流に変形しないではいられないものだという。
 
これと同様のことは、山本七平の本でも語られていたと思うし、自分もキリスト教とは異なるが某宗教団体での経験から、この指摘は一理あるように思える。某宗教団体では、信者はみな同じ神を信じているはずではあったが、その中身を語り合えば、みなの信じる神はそれぞれ少しずつ違っていたようなので…。
 
こうしてみると、信仰とはあくまでも個人的なことであって、それを他と共有するのは殆ど不可能なのかもしれない。大枠で、おおよその部分が重なっていれば、それでよしとするくらいの緩さがなければ、教団を成立させるのは無理なのだろう。
 
 
 
映画については、おおむね原作通りの話になっているようだ。神父が身柄を拘束される場面などは、少し違ってはいるが、全体的には原作の筋を丁寧になぞった作りになっている。すごく原作を尊重しているようだ。宗教的な問答も、すべてではないにしても、大意は原作通りに描かれていると思う。
 



 
ただ気になるところを挙げるとしたら、キリシタンが縄で縛られたり、簀巻きにされたりする場面で、それらの締め方がすごくゆるく見えたことである。この辺りの演出はどうにかならなかったものだろうか。でも拷問、処刑の残酷さ、理不尽さは感じられたし、泣けた。
 
それにしても、キリシタンが迫害されている場面をみると、それに対して神が何もせず沈黙し続けている理由は本当にわからない。なぜ神は、彼らを救わないのだろう。話は飛ぶけど、こんなことが繰り返されるなら、イワン・カラマーゾフみたいな考え方が出てくるのも無理はない。
 
でも、そういう状況ではあっても、人の中には、神を信じないではいられない人々がいるのは不思議であるし、人とは何とも悲しい生き物だろうと思う。おそらくは、神の沈黙について、その理由を人が知ることはないのだろうし、この疑問は人が神を信じ、この世に悲劇がある限りは発せられ続ける問いなのだろう。〈了〉 
 
 
 
*追記 20180922
上の記事では、映画ではキリシタンを縛る縄が、すごくゆるそうで違和感があったと書きました。
でも、当時のことについては、火刑の際、受刑者の体は、柱に縄でくくりつけたが、それはできるだけゆるくするようにしていたという報告があるそうです。
その理由は、受刑者が死ぬ間際まで体を動かし、棄教したと宣言できるようにするためだそうです。
『『沈黙』をめぐる短篇集』(遠藤周作著)に収録されている「雲仙」の終わりの方に、以上のことが書いてありました。
このことからすると、縛り方がゆるいからおかしいとか、一概にはいえないことかもしれません。



*コメント欄のコピペ
(yahoo!ブログからの移行時に、最新20コメより前のコメは移行されなかったので、その部分も含めてコピペ)


コメント(25)
顔アイコン「沈黙こそが神の神たる証し」というのは、いい言葉ですね。
ちょっと思うのだけど、沈黙というのは、そこにいるのだけども、何も言わずに、黙って見ているという感じもありますね。
神様は声は出さないけれども、そこにいて、こちらをじっと見つめていると…。

こういう神様から見られているという感覚は、日々の生活の中でも感じることもあるけど、これは一体何なんだろうなあとは思います。
シンプルに考えれば、小さい頃から「誰も見てなくても、神様は見てるんだよ」と言い聞かされて育ったせいでそう感じるのだろうということになるけれども、なんだかそれだけではないような気がしないでもないし…この辺りは中々解決がつかない問題ではあります。
2019/1/16(水) 午後 7:56[ 楽山 (自由) ]返信する

顔アイコンおはようございます。

「嘘を言ったら閻魔様に舌を抜かれる」というのは、自分が子供だった頃も、よく言われてました。自分は迷信深いので、今でもそのことがちょっと心配だったりもします。

「神様は見てる」で思い出したけど、大ヒットしたライトノベルで、「マリア様がみてる」というのがありましたね。カトリックのリリアン女学園を舞台とする話。コメディ要素を含みつつも、心温まる名作でした。
2019/1/18(金) 午前 6:57[ 楽山 (自由) ]返信する

顔アイコン過去記事を見てみたら、自分でも忘れてたけど、こんなの書いてました。

・神様がみてる
https://blogs.yahoo.co.jp/jiyuu2013/37983568.html
2019/1/18(金) 午前 6:58[ 楽山 (自由) ]返信する

顔アイコン内緒さん、ご紹介いただいたブログをちょっと読ませていただきました。
共感できるところは多々ありますね。でもこの方は他にもブログをやってるのかな。同じ論調のブログを見た記憶があるので、ふとそんな風に感じました。
2019/1/18(金) 午後 7:32[ 楽山 (自由) ]返信する

顔アイコン神は超越者とすると、もうどうしようもなくなっちゃいそうですね。
神は超越者とすると、「これこそ神ではないか」と思った瞬間、それは人の認識の範囲内にあり、超越したものではなくなり、したがって神とは言えなくなりそうなので。

ひょっとしたら、これはある意味、無と同じかもしれませんね。人が「これが無だ」と言ったとたんに、そこに無があることになり、本当の無ではなくなるという考え方。

まあ自分は、理屈をこねるのは得意ではないので、この辺で止めときます…。
2019/1/18(金) 午後 7:48[ 楽山 (自由) ]返信する

顔アイコン>内緒さん
キリスト教の神と、日本の神は、同じ神でも中身は違うと言いますからね。ここはちょっとややこしいかも。
でもいろいろ調べると、両者を合致させるような理屈もないこともないみたいではありますね。
2019/1/20(日) 午前 7:19[ 楽山 (自由) ]返信する

顔アイコン次に、実感についていうと、自分の場合は、日本的な神の存在はリアルに感じる方ではあります。神が見えたり、その声が聞こえたりするわけじゃないけど、神社とかでは何かいると感じたりはします。道端の祠にも何かいる気配はするし、畏れを感じる。

まあ理屈で考えれば、これは迷信、気のせいかもしれないけれども、こういう場合は私は自分の本能、直観に従うことにしてます。
2019/1/20(日) 午前 7:20[ 楽山 (自由) ]返信する

顔アイコン> 自由さん
「まあ理屈で考えれば、これは迷信、気のせいかもしれないけれども、こういう場合は私は自分の本能、直観に従うことにしてます。」

わたしは迷信、気のせいだけではないと思います。
人にも霊と心と体という三位一体のようですから、三位一体の神によっていのちと人格の根源である息吹きを吹き込まれ、人を生きた人格的存在、宗教的存在としている霊性がありますから、神以外?の霊的な存在がいると思いますね。
人それぞれの自由は大切ですが、人が自分の本能、直感だけに従うと危うい気がしますね。様々な怪しげな宗教が容易に乱立し、カルトの教祖などが生まれやすく、そのような自由を狙って支配しようとします。
2019/1/20(日) 午前 10:55[ shalom ]返信する

顔アイコン>2019/1/20(日) 午前 10:57さん

その点については、タイミングを見計らってと思ってます。
2019/1/20(日) 午前 11:14[ 楽山 (自由) ]返信する

顔アイコン> 自由さん
「キリスト教の神と、日本の神は、同じ神でも中身は違うと言いますからね。」

日本の大乗仏教である真宗、浄土真宗はキリスト教とよく似ていると言われますが、これもヒントになるでしょうか。
仏教も、神道もキリスト教の影響を受けていると言われていますね。大乗非仏論という論議もあります。
2019/1/20(日) 午前 11:30[ shalom ]返信する

顔アイコン使徒トマスがインドにキリスト教会を立て、またシルクロードを通して、キリスト教の一派であるネストリウス派が迫害され、シルクロードによって逃れ、長安に教会を立て、中国では景教といわれるようになり、長安には景教についての大きな碑があるようです。その長安に弘法太子が行き、景況にふれて、のちに真言宗の寺を立てたとも言われています。真言という名称にもどこかキリスト教を感じさせます。また景教一族である秦氏が日本に移住し、京都に住まい、私も住んだことがある太秦という地名あります。またそこに広隆寺という寺があり、景教、聖書の痕跡があるということです。また聖徳太子の本名は厩戸皇子、まるで馬小屋で生まれた王子様という名前のようです。本居宣長は聖徳太子論にルカによる福音書を丸写しのような文を書いていると聞きましたし、本居宣長は神道にも大きな影響を与えたようですね。
面白いですね。(笑)
2019/1/20(日) 午前 11:30[ shalom ]返信する

顔アイコン> 自由さん
「神は超越者とすると、もうどうしようもなくなっちゃいそうですね。」

超越者というより超自然である神という方がいいのでしょうか。私はよく言葉使いが粗雑になるようで、ある人に叱られました。
私は自由さんのようにいろんな本を読んでいませんから思考も言葉遣いも粗雑になりやすいようです。ある方のいい餌食にされるマスね。(苦笑)
2019/1/20(日) 午前 11:37[ shalom ]返信する

顔アイコン>2019/1/20(日) 午前 11:37

その点については、自分はさほど厳密な方ではないです。
言葉遣いはちゃんとしていた方がいいのは当然だけども、あまり気にしすぎて萎縮して何も言えなくなるのもつまらないし、おおよその意味が通じればいいだろうと…。
まあこの辺りの基準はその場によるかな。
2019/1/20(日) 午後 0:42[ 楽山 (自由) ]返信する

顔アイコン(自由さん)
「沈黙こそが神の神たる証し」というのは、いい言葉ですね。
ちょっと思うのだけど、沈黙というのは、そこにいるのだけども、何も言わずに、黙って見ているという感じもありますね。
神様は声は出さないけれども、そこにいて、こちらをじっと見つめていると…。

(私)
感じ方としては自然ですが、「沈黙」の読後感想としては、どうかとも思います。「沈黙」のテーマは、じっと見つめている神のことだけでなく、殺されてゆく者を助けてくれない神、という重要なテーマです。
2019/2/2(土) 午前 3:53st5402jp返信する

顔アイコン(自由さん)
キリスト教の神と、日本の神は、同じ神でも中身は違うと言いますからね。ここはちょっとややこしいかも。
でもいろいろ調べると、両者を合致させるような理屈もないこともないみたいではありますね。
(自由さん)
次に、実感についていうと、自分の場合は、日本的な神の存在はリアルに感じる方ではあります。神が見えたり、その声が聞こえたりするわけじゃないけど、神社とかでは何かいると感じたりはします。道端の祠にも何かいる気配はするし、畏れを感じる。

(私)
なんとなくいそうな感じというのは、何か荘厳な雰囲気に触れたとき、多くの人が感じるものですが、その恐れも、何とはない不思議な雰囲気として感じるものでしょう。
(私)
キリスト教の神は、人の不完全に対するところの、人が知りえない完全の存在としての神であり、そのことが聖書全体にわたって書かれています。振り返って、人は、自らの不完全を知り、罪を犯しやすい自分を感知し認識することになります。
(私)罪を気にしなくていいとか、罪を振り返ることもなく気にしないとかは、キリスト教のどこからも生まれてきません。
2019/2/2(土) 午前 3:53st5402jp返信する

顔アイコン(自由さん)
まあ理屈で考えれば、これは迷信、気のせいかもしれないけれども、こういう場合は私は自分の本能、直観に従うことにしてます。

(私)
それは、迷信でも気のせいでもなく、雰囲気に反応する気分として、認識ではなく多く一過性だが、誰でも感じることはあるでしょう。
2019/2/2(土) 午前 3:54st5402jp返信する

顔アイコン(シャローム)
わたしは迷信、気のせいだけではないと思います。
人にも霊と心と体という三位一体のようですから、三位一体の神によっていのちと人格の根源である息吹きを吹き込まれ、人を生きた人格的存在、宗教的存在としている霊性がありますから、神以外?の霊的な存在がいると思いますね。
人それぞれの自由は大切ですが、人が自分の本能、直感だけに従うと危うい気がしますね。様々な怪しげな宗教が容易に乱立し、カルトの教祖などが生まれやすく、そのような自由を狙って支配しようとします。

(私)
シャロームは、父、御子、御霊の三位一体という言葉とその重みを、まるで受け取っていないようです。人の三位一体、人と霊と体、という聖三位とは何の対応もしていない軽口に、いったい何の意味があるでしょう。
2019/2/2(土) 午前 3:54st5402jp返信する

顔アイコン(私)
シャロームは、さらに、何を難しく言いたいのか、宗教的存在としている霊性、と言っていますが、人間が人格や心と分離できる霊というものを分離して理解できるわけではないのに、人間性に密接に関係した心という属性を超えたところで、理解できるはずはないのです。そこを、箔を付けたいのか、シャロームの勝手な好みとして、霊性を挙げ、その頂点である聖霊を自作の妄想の根拠だと言い張ってきたのです。
(私)
つまり、シャロームこそが、自らの自己顕示的な欲望という本能と、幼稚な短絡的直感によって、
人それぞれの自己中の妄想を言い張っているのです。その結果、小学生でも分かるような、罪を認めて悔い改めるのがキリスト信仰なのに、罪を認めず悔い改めないのがシャローム、という、単純な矛盾に気づかずに、むしろ埋没して、カルト妄想の無根拠の繰り返しになっています。
2019/2/2(土) 午前 3:55st5402jp返信する

顔アイコン(シャローム)
日本の大乗仏教である真宗、浄土真宗はキリスト教とよく似ていると言われますが、これもヒントになるでしょうか。
仏教も、神道もキリスト教の影響を受けていると言われていますね。大乗非仏論という論議もあります。

(私)
ヒントを提供するほど、仏教や神道を知っているなら、なぜ信じなかったんだ、ということになるのだが、シャロームは無頓着なようです。それとも、知ったが救いにならなかったから信じなかったというなら、異教に対する侮辱です。
(私)
私は何が言いたいかと言えば、異教については、真面目な異教徒もいることだし、信じてもいないものが、軽々に、助言するかのように、似てるとか、キリスト教の影響があるとか、結局、キリスト教から見て言っているに過ぎません。
(私)
キリスト教徒は、仏教を知ってはいない人です。
2019/2/2(土) 午前 3:56st5402jp返信する

顔アイコン(私)
「と言われます」「と言われている」と言いながら、「ヒントになるでしょうか」「大乗非仏論という論議もあります」という教える態度の発言には、キリスト教も知らないシャロームの、自分キリスト教優越意識が見え隠れしているのです。何事につけても、シャロームは尊大であり、それが破れた皮袋から漏れ出しているのです。
(私)
私が洗礼を受けた教会の牧師は、親鸞のの悪人が往生できるというのはキリスト教に似ていると聞いたことがあります。そのためか、私は、後日、薄い文庫本の歎異抄を読んでみましたが、弟子との問答になると、ややこしい感じになって分からなくて、似ていると思っても、知ったとか分かったとかは言えません。ヒントと言ったり、大乗何々論とかを添えるのは、シャロームに前から見られるところの宗教インテリ気取りに過ぎません。
2019/2/2(土) 午前 3:56st5402jp返信する

顔アイコン(私)
例えば、異教の人が、キリスト教について、あれはこうだから・・などと言っていたらどうでしょう。シャロームなら、またぞろ、聖書語を並べ立てるでしょう。以前、シャロームは、仏教系の人と、100コメ超の遣り取りをしていました。まるで噛み合っていなかったという感想を覚えています。そのコメントも、シャロームは全部削除しています。
(私)
誰かに、キリスト教というのはこうだから・・と軽く言われても、そこに、命を預け、人生をかけて、愚か者と言われても、悔い改めの祈りの人生を続けているのがキリスト者です。
(私)
何もわかっていないのに、キリスト教はこうだ・・と言い張っているのが、シャロームです。彼の頭の中でだけ、彼の宗教妄想が、キリストの名で堂々巡りしているのです。
2019/2/2(土) 午前 3:56st5402jp返信する

顔アイコン(自由さん)
「神は超越者とすると、もうどうしようもなくなっちゃいそうですね。」
(自由さん)
「これこそ神ではないか」と思った瞬間、それは人の認識の範囲内にあり、超越したものではなくなり、したがって神とは言えなくなりそうなので

(私)
認識できた途端、人知を超えた神ではなくなる、ということは、信仰を語る上で大事な問題だと思います。すなわち、神を、人知で認識対象としてはいけないということです。
(私)
では、何が言えるのかというと、聖書の言葉の中から、認識できない超常の神聖の要素は、概念にもならないので、信仰そのものに関われないこととして、文献的歴史的な解釈や資料にとどめるべきでしょう。
2019/2/2(土) 午前 3:57st5402jp返信する

顔アイコン(私)
聖書の中で、神とキリストに関わった人は、救われた人は、批判された人は、叱られた人は、敵となった人は、どうであったか、ということを中心に考えてゆくしかありません。そこから、義とされ救われるには、何を心がけ、何を避けるべきかを考えています。人間が認識できることを掘り下げるというのは、神の真理の絶対性を知り得ない人間の信仰の相対性を自覚することです。
(私)
シャロームは、その人間の限界を、すっ飛んで、神は、キリストは、聖霊はと、しゃべりまくりますが、そのことが既に妄想の域にしか行かない方向なのです。人は、神聖が働きかけたかどうかさえ感知できません。神聖の働きかけは、もしかしたら・・かもしれない、という推測の域を出ません。
(私)
神聖を決めつけることは、神の名をみだりに唱えることであり、最も戒められることです。
(私)
それを、知ったかぶりして、笑いながら、自分に当てはめて決めつけて、嘘の優しさで、語ろうとするのがシャロームという偽善者です。
2019/2/2(土) 午前 3:57st5402jp返信する

顔アイコン(シャローム)
超越者というより超自然である神という方がいいのでしょうか。私はよく言葉使いが粗雑になるようで、ある人に叱られました。
私は自由さんのようにいろんな本を読んでいませんから思考も言葉遣いも粗雑になりやすいようです。ある方のいい餌食にされるマスね。(苦笑)

(私)
超越者を超自然と言い換えても、何も変わりません。シャロームは、言葉だけいじって、どちらも知っているかのように、決めてつけて語ってきました。さらに、それを固く信じ込むことが信仰だと思い込んでいるようです。
2019/2/2(土) 午前 3:58st5402jp返信する

顔アイコン(私)
「ある人」というのは私のことかもしれませんが、「餌食」という犠牲者みたいな言い方をするのも、シャロームの自己正当化と保身機能が働いているのです。私は、いつも、とりわけ不味いシャロームを食おうなどとは思いません。
(私)
シャロームが、キリスト者を餌食にしようとして、特に最近、記事とコメントを書きまくっているようです。私は、シャロームが、いかに、キリストと神をけがし、キリスト者を食い物にしようとしているかを、私の出来る範囲で、つまり、批判記事とコメントで、敷衍したいだけです。誰も、卑怯極まりないシャロームに近づいてほしくないからです。
2019/2/2(土) 午前 3:58st5402jp返信する